あわいをめぐる旅

011. 言葉と言葉にならないもののあいだ

- 世界は願いでできている -

1月末にクラウドファンディングを開始し私も参加をしているプロジェクトが、ネクストゴールに向けて順調に歩みを進めているという通知が届いた。プロジェクト開始4日目で、500万円の目標を達成。今は1000万円というの新たなゴールを目指している。

「重度障害者の意思疎通を実現する、新しい伝達装置を開発したい!」

これは、「レッツ・チャット」というコミュニケーション機器を、必要としている人に届けるための取り組みだ。

 

−ALS(筋萎縮性側索硬化症)のような難病患者や交通事故、脳幹出血などが原因で「会話や目配せ」でも意思疎通が困難とされている重度障がい者は全国に10万人以上いるとも言われています。

特に最重度となった場合、医学的には「植物状態」と診断されてしまいますが、実はそのうち半分程度の方は意識はあるが、身体をほとんど動かせないため、「意識もない」と判断されてしまっています。

その結果、判断力はあるにも関わらず周りとのコミュニケーションが取れないことから、まっ暗闇の中で残りの人生を生きていかざるを得ません。家族や支援者も「本人はどう思っているのだろう?」と不安を抱えながら、出口の見えない辛い介護をせざるを得ないのです。(READY FOR のプロジェクト概要より)

私の周りには意思疎通が困難になっている人がいるわけでない。(95歳を超える祖母はそうだとも言えるだろうか。小学校の頃にシュタイナーの教室で一緒に遊んでいた男の子も、話す言葉は自分とは違ったが、何らかのコミュニケーションを交わしているという感覚は少なからずあった。)これまでも、加齢以外の理由で、意思疎通が全くできない人と出会う機会はなかったように思う。でも私にはこのプロジェクトが他人事には思えないのだ。

それは私がコミュニケーションという仕事に携わっているということもあるが、このプロジェクトが私の心に触れたのはそれだけではないと思う。

一つはレッツ・チャットの開発者である松尾光晴さんの想い。松尾さんは2003年に、所属していたパナソニック社内でベンチャーを立ち上げ、障がい者のコミュニケーションにおける課題を解決するために、スイッチ一つで文章を綴ることのできるシンプルな意思伝達装置を開発した。その裏には松尾さんの父親がALSの難病を患い、最期には意思疎通ができないままに亡くなったという経験と、同じようなつらい思いをしている方を一人でも救いたいという想いがある。

そして、このプロジェクトは、松尾さんと同様、病気や事故などで大切な人が言語やその他の方法を使ったコミュニケーションができない中で、どうにか何かを交わすことができないかという想いを抱えている人たちのプロジェクトでもある。

READYFORの、支援者からの応援メッセージにも、家族や友人が言葉を交わせない状態になっている人や、そういった人たちが入所する施設の職員の方からの多くの書き込みがある。一人一人が、支援者であり、当事者なのだ。

今は、クラウドファンディングという形で様々なことにチャレンジすることができるようになった。私も、時折、誰かがシェアをしているプロジェクトに参加をすることがあるが、今回のプロジェクトを通じて、改めて、クラウドファンディングの価値や役割について考えている。

資本主義経済の中で動く企業は、どうしてもマーケットの規模や利益を優先した開発や販売に重点を置くことがある。それぞれの企業にそれぞれの目指す姿や指標があり、そこで働く人がいる。商品やサービスを流通させるそのプロセスにも経済の原理が働いており、市場に流通する商品が、必ずしも強く必要としている人がいる商品やサービスとは限らない。今はどちらかというと「市場そのものを作り出す」ということに目が向けられることもある。本来は、そんな中でとりこぼされてしまうことを利益優先ではなくカバーするのが公の役割かもしれないが、それができる範囲も限られている。

そんな中、自分たちが必要なものを自分たちで生み出していこうというのがクラウドファンディングだ。こんなことは「いまさら」なことかもしれないが、クラウドファンディング自体を行うハードルが下がり、様々なプロジェクトが生まれる中で、「自分にとってクラウドファンディングとは何なのか」ということを問い直した結果、一周回って出てきた答えだ。

ひとりひとりができることや出すことのできる資金は限られているとしても、それを集めれば形あるものをつくることができる。そこにあるのは、支援する側・される側という関係ではなく、そこにいる誰もが当事者であり、挑戦者なのだ。

「こんなことに向き合っているのは自分だけなんじゃないか」という孤独や暗闇の中にいる人たちが、同じことに取り組む仲間がいるという光に出会う。クラウドファンディングはそんな場でもあるのだと思う。

もう一つ、今回私の心のひだに触れたのが「分断」というテーマだった。障がいを持った人とその周囲の人たち、そしてさらのその周囲の人たち。コミュニケーションが断たれたことによってその間には分断が生まれる。「言葉や想いを交わすことができない」というのは大きな不安や孤独を生み出すのだということを、レッツ・チャットの開発者である松尾さんをはじめとした、実際にそれを経験している人たちの言葉を通じて知った。関係性を断たれてしまうことは、生きる上でとても苦しいことなのだと思う。(そういえば、シュタイナーの教室で一緒に遊んでいた男の子も、いらいらしているように見えることがあった。それは自分が伝えたいことを伝えられることができないというもどかしさからきていたのかもしれない)

そしてそれは、障がいと呼ばれるものを持っている人だけのテーマではないと私は感じている。普段、言葉を交わしているように見える人たちも、本当に心を交わせているだろうか。もちろん、意思疎通が全くできない状態に比べたら、それがどんな形であっても、どんな内容であっても、「交わすことができる」というのはかけがえのないことなのだと思う。その前提がある上でだが、それでもやっぱり、「コミュニケーションらしきもの」で溢れる現代社会の中で、本当に大切なものを交わすことができているだろうかと思うのだ。

最近、オランダでアントロポゾフィー医療に携わる精神科医の方とお話ししたときに「病気というのはそれを病気だとみなす社会があってはじめて病気になる」ということが話題になった。本当にそうだと思う。私はコーチという仕事上、精神的なトラブルと言われるものを抱えている人ではなく、気力体力ともに元気だったり健康だと見なされている人とご一緒する。しかし、そんな人たちがテーマとすることも、例えばカウンセリングで扱われることも、大きく言えば「その人が本来持っている力を発揮する」ということに向かうものであり、それが難しくなっている根底にあるのは「分断」という共通したテーマだと感じている。他者との分断、環境との分断、そして自分自身の感覚や想いとの分断。

他者と言葉を交わすことができないことは、関係性や世界との分断を生むだろう。しかし、言葉を交わすことができても、同じように分断が生まれていると私は感じている。

大切な人と意思疎通ができない人の悲しみや苦しさは計り知れない。それでもあえて、批判を覚悟で言うと、意思疎通ができなくなったことで「大切なものが交わせていなかった」ということにも気づくこともあるのではないかと思う。大切なことをしっかり交わすことができたいたなら、なおさら、そんな日々を積み重ねていきたいと思うだろう。

人の話を聞いていると、どんな行動や考えの根底にも純粋な想いがあるということに気づく。「純粋な」というのは、「その人が生きてきた道のりで精一杯に経験してきたことを元にした」とも言い換えられる。誰もが心の中に何らかの想いがあるし、感じていることがあるし、それを伝えたいと思っている。それでも、それぞれの人が「純粋さ(独自の経験や価値観)」を持っているからこそ伝わらないこともある。それぞれの人が、「分かってほしい」と願いながら、「自分」という世界の中に閉じてしまっている。

自分自身をはじめとした、言葉を交わすことができている人たちにも、「本当に交わせているか」と問い続けたい。この世界は、私たちが思っている以上に、「願い」に満ち溢れているのだから。

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