あわいをめぐる旅

010 性と生のあいだ

- 「恥ずかしいもの」として蓋をする日本社会へ -

この夏に参加したインテグラル理論のゼミナールの中で、個人的に印象的だったテーマは実は性に関するものだった。このテーマについてはゼミナールの中で直接的に取り上げられることはなかったが、補助教材として公開された録音の中で触れられており、そこに私はそれまで取り上げられて来た食や金融など様々なテーマにはなかった熱量のようなものを感じた。それはきっと、私の中のセンサーがより強く反応したということなのだと思う。

録音の中でおすすめされていた書籍の1冊である『タオ性科学 自然治癒力を高める陰陽和合の秘訣』という書籍を日本から来るパートナーに持って来てもらったこと、そして実際にパートナーと時間を共にするようになったことが、今、このテーマについて言葉にすることを後押ししている。

だがそれだけではない。このテーマについてはいつか日本に投げかけたいことだった。それは、私から見ると日本社会における性を通じた男女の関係性および一人一人の自分自身との関係性が歪んだものになっていることを感じるからだ。それはあくまで私自身の体験と物の見方を通したものだけれども、きっと社会全体に広がるものを反映しているのだと思う。

率直に言って私から見た日本の男女関係における性は、表面的にはオレンジ(合理的・科学的)で語られながら、内実はレッド(封建的・支配的)であるように映る。性をはじめとした様々なテーマにおいて、それぞれのテーマがそれぞれの段階を内包していることは健全なことだ。しかし、性においては、そのバランスがとても不健全だと感じる。

先日、オランダで3年間教育武者修行をし、最後にイエナプランの研修に参加をした社会科教師の友人がオランダにおける性教育について話をしてくれた。小学校の低学年にあたるクラスで、ある日、兄弟がポルノ雑誌を見ていたということを登校中にからかわれた生徒がいたことを発端に、朝一番で性に関する話が始まったのだと言う。登校中に起こったことを聞いた担任の先生が、「インターネットを使って、どのくらいの時間で性的な画像を見つけることができるか試してみましょう」ということから話を始め、数十秒もかからずに子どもの性的な画像を見つけることまでできてしまうという現状を実感した上で、男女の身体的な交わりや心について動画を見ることも行い、校長先生まで登場して1日がかりで話をしたという。「大切なテーマだから、生徒一人一人のことをよく知っている担任の先生が、いつもの授業の中で話をする」「恥ずかしいという感情が芽生える前から、当たり前のこととして話をする」という方針だということだ。

翻って、日本の教育における性教育はどうだろう。私の場合は、確か高校生の家庭科の時間に、「いつもとは違う先生」がやってきて、男女別々に、女性の身体の仕組みや妊娠・出産についての話を聞いたように思う。今思えばそれはとても科学的というか、生物学的な話だ。しかし当時すでに多くの生徒が、性は単に生物学的な話ではなく心にも大きく関わっているということに気づいていただろう。それは、性的な体験だけでなく、他者に対して好意を抱いたりする体験を通して自然に実感していくことなのだと思う。しかしそれが公には生物学的にしか語られず、時にはフタをされる。日本の社会と教育においては性が「触れてはいけないもの」として扱われながらも、裏では性産業という大きな産業が成り立つという奇妙な構造が出来上がっている。性産業自体を否定するつもりはない。しかし、表立ってはあまりに腫れ物扱いというか、不健全に抑圧する力が働いているのではないか。

それを実感したのはドイツに暮らして、性がとてもオープンな様子を目の当たりにしたときだった。ドイツの混浴のサウナについては以前まとめた通りだが、もう一つ、ドイツでまず驚いたのがアダルトグッズショップがあまりにカラッと存在しているということだった。「Sexy Shop」という名のアダルトグッズのチェーン店の一つは赤い看板をしているのだが、それが、ロードサイドのバーガーキングの看板に並んで立っているのだ。もちろん駐車場も隣り合わせ。入り口はかろうじて大通り沿いではない場所にあるが、それは自分がそう思っただけで、特段深い意味はないのかもしれないと思わせるくらい、とにかく特別なものではないように店がある。

私が知る日本でのアダルト分野のものの扱いと言えば、レンタルビデオショップの片隅にあるアダルトビデオコーナーか、ドンキホーテの一角にあるアダルトグッズコーナーくらいなのだが、それと比べるとその存在自体がまず堂々としており、外観同様(それでも一応中は見えないようになっているのだが)中はとてもカラッとした印象だ。その辺の雑貨屋と変わらない雰囲気で、レジの女性が「ハロー」と声をかけてくる。男女のカップルや男性だけでなく、中には女性だけの客もいて、やはり他の店と変わらない様子で店内のものを見て買い物をしていく。ドイツの女性は日本人から言うと自分の考えや希望をハッキリ言うと言われているが(欧州全体が比較的そうだろう)、アダルトグッズに関しても女性が自分自身の楽しみもしくはパートナーとの楽しみのために使うものも多くあるという感じがした。

それに比べると日本で生理用品などを買うとコンビニでも薬局でも紙袋に入れられるあの「蓋をした感」は何なのだろうといつも思う。

自分自身を含めた日本の女性というのは性に対して随分と受け身のように感じる。受け身でない=積極的=節操がないという社会通念のようなものがあり、その中では控えめで受け身でいることが自分の身を守ることにもつながるという社会としての実情もあるように思う。そして、公には閉じられ抑圧された性が、その閉じた空間での支配的な性を生み出しているのではないか。

これについてはまた改めて整理して書いていきたいが、本来性とは、相手がいる・いないに関わらず、生物として生きるエネルギーとつながっているものではないかと思うが、日本社会ではあまりに消耗的であり、生きることや、心の幸せとかけ離れたものになっているのではないかというのが今の私の課題感だ。

コーチとして「人が本来持っている力を発揮する」ということにずっと向き合ってきた。その結果、心の静けさ、身体の健康を探求するようになった。そして今、性というテーマが、避けては通れないものになっている。これについては正直なところ特に日本人にとっては扱いや伝え方が難しいと感じるところがあるが、精神の健全な成長に必要な「自己治癒」としての性、そして、生命エネルギーを開花させるような性を昼間の世界に出していくことは、日本から離れ、オランダに身をおく自分だからこそできることの一つではないかと思う。