あわいをめぐる旅
008.「できる」と「できない」のあいだ
-成長のフラクタルを探して-

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*「成長の構造」や「フラクタル」については『成人発達理論による能力の成長 – ダイナミックスキル理論の実践的活用法 – 』加藤洋平著 に詳しく書かれております。

0. 「成長の構造」について考える


「成長」というのは私の中では永遠のテーマだ。それは、「人は死ぬときまで意識の成長を続ける」(肉体の死が魂の死なのかはまだ分からないので、一旦はこの表現に留めておく)ということを知る前から強く思っていたことだ。なぜそう思ってきたのかは分からないが、現在の自分を起点とし、次のステージへの歩みをどう進めるかについて考えてみるために、これまでどのような成長の変遷を辿ってきたかを振り返ってみたい。

成長には大きく「能力」(特定の領域を遂行する力)の成長と、「器」(人間性や度量)の成長の二種類があると認識しているが、できれば双方について、考えてみたい。と言っても現時点で明確に整理ができているわけではない。振り返っているうちに見えてくるものがあるのではと思っている。これまで直面してきた課題とそれをどう乗り越えたかというのが「成長」と結びついているのではないかと考えているが、それも書いているうちに違う切り口が見えてくるかもしれない。

当初、仕事を始めてからのことを振り返ろうと思っていたが、大学で3年間の留年とその間、学外での様々な経験を経た私としては、その頃をスタート地点とするのがいいのではないかという気がしている。

1. 決められたものさしの中で量的な成果を目指して


大学に入ってショックを受けたのが、「好きな授業を選ぶことがほとんどできない」ということだった。それは私が理系の学科だったためだろうか。最近の大学生の話を聞くと、もっと選択の自由度が高いように感じるが、少なくとも私の場合はそうではなかった。(今、大学に入学してからもうすぐ20年経とうとしているということに気づき、本題とは関係ないところで愕然としている。)

大学に入るまで、幸か不幸か自らの選択で勉強をしていると思ってきた私は、「大学に入るため」という目標がなくなった先に、世界がぱあっと開けていると思っていた。しかし、大学で受講する講義について「選択の余地がない」という実情を知り、とても窮屈な感じがした。今思えばそもそも自分が「工学部地球環境工学科(旧土木学科)」というところで、明確に学びたいものなどなかったのだと思う。そんな状況で取ったスタンスは「とりあえず単位を取る」というものだった。(それが結局のところ「とりあえず単位を取る」ということさえできずに2回も留年したのだが。)

そんな中、学生生活最後の年に宝くじのキャンペーンガールとして1年間、全国を回ることになった。そこでの努力は、自分で言うのもなんだが、大学の学業に向けたものとは比べものにならない。その理由は大きく2つあった。一つは自分が心から希望した活動だったこと。もう一つはその活動をするチャンスをくれた人に感謝をしていたということだ。私は、毎年6人選ばれるキャンペーンガールの中で、「次点」で選ばれていたのだ。最終選考会には、自分よりずっと華も適正もある人が来ていたことを実感している。そんな中「次点」のチャンスが回ってきたのは、自分にチャンスを作ろうと思ってくれた人がいるからに他ならないと思っていた。明確にそれを言われたわけではないが、私はそう思っていた。だから、落ちこぼれにならないように、誰よりも努力しようと決めたのだった。

そのときに取り組んだのは「期待に沿って、それを超える」ということだった。「超える」と言っても、今思えば、あくまで量的な「超える」である。そのときは質的な違いや成長があるということは想像もしていなかった。だから、求められるものさしの種類をもとに、その中で、より高い点数を出すということに全力を向けた。初めての仕事が地方のテレビ局の番組内での宝くじのPRだったが、そのとき私は原稿を完璧に覚えて収録に臨んだ。それを驚かれたが、それは当たり前のことだと思っていた。期待されるものを期待通りかそれ以上に遂行する。当時の様子を知る人に「よっぽどセンスがあるかよっぽど努力家かどちらかだと思った」と言われるが、明らかに後者である。その前提にあったのは、「自分が望んだ世界の中で」「自分の中での最大限の努力をする」ということだった。今思えば、例えば誰かをお手本にしたり、学びの対象を広げたり、もっとできることはあったと思うが、そのときの私は、自分が感じた物差しに則って、自分なりの努力をするというのが精一杯だった。今思えばこれは、ものすごく「点」に集中しているような感じだ。至らないところもたくさんあったと思う。それを周囲の大人はよく見守ってくれたものだと思う。

2. 人間関係と知識・経験の壁から逃げて


長い学生生活を経て、念願の社会人になった。「やっと働くことができる」という喜びとは裏腹に、社会人生活の始まりは、大学生活の始まりと同じく、窮屈なものだった。そのときぶつかった課題は大きく2つ。1つ目は人間関係の課題。もう1つは知識と経験のなさから成長実感や貢献実感が感じられないという課題だ。

入社した会社はリクルートの不動産事業部がMBOで独立をしてつくった会社のグループ会社の一つであり、九州のビルマネジメント会社を買収してできた会社でもあった。その関係から、配属された事務所では、3つの違う企業に籍を置く人たちが働いていた。今となっては、そこにいたそれぞれの人たちの複雑な気持ちというのは少しは想像ができるが、当時の私にとってその複雑さは理解しがたいものだった。

そしてもう一つの知識と経験のなさというのも大きな壁として立ちはだかった。不動産設備管理という仕事の特性上、知識と経験が絶対的に物を言う。しかも必要とされる知識は膨大だ。ひよっこの新入社員がちょっと頑張ったところで何かがすぐにできるようになるわけではない。自分の前には、圧倒的に知識も経験もある先輩たちがいる。そして、クライアントが「不動産の所有者である法人」という状況もあり、自分がやっていることが誰のため、何のためになっているのかという実感が全く湧かなかった。今なら、大学時代に経験した「誰かの反応がすぐに分かるものに対する向き合い方」から時間軸や空間・対象を広げて向き合えばよかったのだろうということが分かるが、そのときは、何に対してどう努力すればいいのかというのさえ分からなかった。

そのときの自分は、力を発揮したり、努力をしたりできることが「自分が興味があること」かつ「結果や反応がすぐに分かること」に限定されていたのだと思う。「立場の違う他者」の視点や価値観というのも全く理解できなかったし、そういうものがあるということさえ気づいていなかった。

そんな中、私は、入社して数ヶ月経ったときの当時の人事部長との面談で「仕事が面白くないから辞めたい」ということを漏らした。今時の(?)若者らしい、企業泣かせの考えだ。あのときもよく、周囲の人は見守ってくれたと思う。そして入社して半年、本配属で別の部署に配属が決まった。

3. 「前例のないこと」にのびのびと取り組むことを後押ししてくれたもの


配属されたのはそれまでのオフィスビル管理とは全く違う、商業施設運営の組織だった。違うのは仕事内容だけではない。新しく九州につくられた部署だったため、東京から来たマネージャー1人にメンバーは私を入れて3人。PM(プロパティマネジメント)という立ち位置自体が当時まだ新しかったので、私以外の2人のメンバーも、社歴としては先輩だが、内容としては初めて取り組む仕事だった。その業界の知識や経験が豊富な人たちがいる中から、業界としても新しいところへ。それまでとは真逆とも言える環境の中で、私は人が変わったように生き生きと仕事をすることができた。

人間関係や知識・経験のなさという課題自体が一旦ない環境に身を置いたので、その時点でその二つの課題は、なくなったが乗り越えてはいない。

そこでぶつかったのは、「前例がないことをどうやるか」という課題と、離れたところにいる人たちや、立場の違う他社の人とのコミュニケーションだ。「前例がないこと」は、「自分の中のものさしや価値観でも測ることができないこと」だった。それとどうやって向き合ったのだろうと思うけれど、思い返せばそのときのマネージャーの関わりが大きかったのではないかと思う。

そう言えば、当時のマネージャーは出張の度に近くの商業施設に足を運び、「商業施設運営」に関することを教えてくれた。それは、知識というよりも、「考え方」だったように思う。それまでのオフィスビルの施設管理では知識という点の一つ一つを知る必要があり、その広がりの途方のなさに、やる気をなくしてしまったのだが、商業施設はオフィスビルに比べてそれぞれの施設の独自性が高いことから、点としての知識ではなく、考え方の枠組みを知るということが重要だったのだろう。本当はオフィスビルの施設管理の考え方にも「枠組み」はあったのだと思うが、そのときはそれに気づくことができなかった。

振り返ってみると、商業施設運営のときのマネージャーが私に最初に与えた課題は、当時携わっていた建物のオーナーである不動産ファンドや不動産リートの仕組みについてまとめることだった。そして、提案資料など、担当物件に関する提案資料等を作成する機会をどんどんくれたのだった。業界の構造を整理し、担当物件に関する考え方を言葉や図にして人に伝える機会をもらったことは今になって考えると、自分の中に構造をつくる大きな後押しとなっている。一つ一つの要素とそれぞれのつながり、そして全体の構造を見渡す機会をそのときにもらっていたのだと思う。


そんな中で、複数の物件を担当し、一つの物件のある特定のテーマに関する考え方や運営能力を高めるところから、物件全体の運営能力を高め、そしてそれを他の物件に応用するというステップを自然に踏んでいった。(これは今思うと本当にありがたい構造化のステップだった。)

もう一つのテーマであったコミュニケーションについては、それまで得意としていた対面でのコミュニケーションから、距離が離れた人に幅を広げ、さらに立場の違う人の視点も徐々に獲得できるようになったのではないかと思う。しかしこのときはまだ非常に限定的な視点だったはずだ。今思えば(今思えばということばかりだが)、人生の先輩たちに対して失礼もたくさんあっただろう。

4. 「業界」という枠組みを超えて

 

転職によって、不動産ファンド・リートの保有する不動産の運営というところから、同じ不動産でも所有者の立場や規模・予算・時間軸の違うものに関わることにスライドをした。ある物件を管理する能力を点とすると、その点は、物件管理に必要な複数の能力の構造によってできており、さらには、点が集まって「不動産ファンドやリートの管理する物件の運営」という新たな構造になる。所有者の立場や規模・予算・時間軸が変わるということは、別の立体構造がまた現れたという感じだろうか。しかしどちらもあくまで「不動産運営・管理」という同じ枠組み(業界)の中の点とも言える。

そこでぶつかった壁は、「不動産」という自分が関わることのできる領域の壁だった。これは、転職前にすでに感じていたことでもある。不動産に関わっていると、不動産の所有者や入居者、利用者という人間が登場する。例えばどんなに素晴らしい建物をつくったとしても、その中で働く人、もしくは企業が不健全な状態やモチベーションが低い状態であると、その施設の利用者は増えず結果として不動産運営は上手くいかない。「一人一人が本来持っている力を発揮して生き生きと働けることを後押ししたい」という想いを持つようになったのは、不動産運営に関わる中で、ハードでは解決できないことに直面した結果だった。

その解決方法として白羽の矢を立てたのがコーチングだった。コーチングについては、「せっかく学ぶならしっかりしたものを」と思い、本などを読んで勉強することはせず、いきなりコーチングスキルに関するトレーニングと自分に対するコーチがつくのがセットになっているプログラムに参加をした。同時に実践も始めた。このときは、とにかく新しく学んだことを一つ一つ実践するというやり方でスキルを身につけていった。

ダイレクトに相手の反応を感じられること、そして成長の後押しをしてくれるコーチという存在がいたことは、それまでとは全く違う領域のことに取り組みながら、心折れないことの大きな要因になっていただろう。また、それまでとは全く違う領域ながら、関連性があり、役に立つという確信をしていたことも大きい。今思うとこれは、商業施設運営に携わっていたときの構造にも近い。取り組みとテーマ、誰にどんな影響があるかが明確で、言語化や構造化を促してくれる支援者がいるということは共通している。

そこから、「一人一人が持っている力を発揮する」というテーマに深く取り組んでいきたいと、コーチングファームに転職をした。

5.  再び、あのときの壁に挑む

 

そのときにぶつかった課題は、再び、知識や経験のなさから自分の無力さを感じるというものだった。そういえばこれは、社会人になってはじめにぶつかった壁と同じだ。転職をした当初は、コーチの資格を既に持っていたものの、お客さんと直接やりとりをするために社内のトレーニングやテストを通過しなければならなかった。「誰のためにやっているか」というのが分からないもどかしさも、以前の壁と同じものだった。

社会人になってすぐの頃に比べれば多少知識の土台はあったものの、それでも雀の涙ほどのもので、経験豊富な先輩コーチがいる中で、自分が力を発揮していけるのだという実感が持てず、一生懸命過ごすも何に向かっているか分からず、夜中に家に着く直前に涙がポロポロ出てくるという毎日だった。しかしそのときは、最初の仕事のときのようにすぐには諦めなかった。

なぜそうできたのか。社内でメンターコーチという存在がいたことも大きいが、自分の中でコーチという仕事をする意義が明確だったということも大きな要因だろう。最初の仕事では、なぜ自分がその仕事をするのかという意義を見つけられないままだったのだ。目の前の仕事の意味は理解はしていたと思う。それが、誰にどんな影響があって、社会とどんな風につながっているかというのは見えていなかった。

ほどなくして、いくつかの必要なテストを通過し、個人のクライアントさんと自分でやりとりができるようになった。次にぶつかったのは、法人という、個人とは違う予算や意思決定・考え方をする存在に対する営業を含めた関わりをどうするかと壁だった。大きかったのは営業の壁だ。「自分なりの方法」でやってみるも上手くいかず、そこで私は、先輩の営業スタイルを丸々コピーするという手法を取った。先輩が話していることを一言一句言えるようにしたのである。しかしそれでも上手くいかなかった。上手くいき始めたのは、先輩の営業スタイルをさらに自分の等身大にアレンジしなおすということを始めてからだった。

そう言えば、これも今思えばだが、商業施設運営の仕事をしているときも、私は打ち合わせなどでマネージャーがやっていることを真似することをしていた。むしろ、マネージャーがあっという間に他の人がやっていることを真似してあたかも自分が何年も前からそうしているように振る舞うのを見て驚いていたところ、「営業とはそういうものだ」というようなことを言われ、自分も堂々と、真似をするようになったのだったと思う。事例から学ぶこと、モデルをコピーすること、それを自分なりにアレンジし、自分なりのスタイルを作ること。そのサイクルは領域は違っても繰り返されている。

コーチングファームでは、人間関係の壁というのはあまりぶつからなかったかもしれない。あるとすれば「組織内での人間関係にエネルギーを使うこと」に対する自分自身のモチベーションの低さだろう。ファームでの仕事を通じて、多くの組織が抱える問題は「組織内の問題」だということが分かった。それに対して私は、「その問題を解消し、外(お客様や社会)に対してエネルギーを向けられること」を後押ししたいと思っていた。同時に自分が所属する組織に対しても、「組織内の問題を解決するのにエネルギーをかけるのはもったいない」と思っていた。今思えば、このときの私の課題は「組織内に向けた取り組み」と「組織の外に向ける取り組み」の間に線引きをすることそのものだったと思う。

6. 「違いがある」ということを知った上での「やっぱり違う」

 

コーチングファームを出てぶつかった課題は、協働者との価値観の違いだ。なぜその課題にそのときぶつかったのだろうかと考えてみると、それまでは既に提供するサービスが決まっている状態で企業内もしくは他者の人と協働していたという環境があった。フリーランスになってからは、提供するサービスやその価値自体をつくっていくということに携わるようになったため、そうすると、「何のために」「何を目指して」というところからすり合わせる必要が出てきたのだ。

仮に方法は同じだとしても目指すところやその根底にある価値観が違うとそれに違和感を感じるとともに、「自分の志に合わないことはやりたくない」と強く思った。それは、例えば最初の職場で「相手の立場や価値観が分からなかった」というのとは違う。もちろん、100%分かるようになったわけではないが、価値観やその背景が違うと分かった上で、嫌だと思うのだ。

この課題が生まれるもう一つの要因はその関係性にもあっただろう。協働者ではあるものの、資本関係や契約関係などから、対等ではなく、あくまで私は「相手の思い描く地図を実現することを手伝う」という立場だった。様々な実務にも携わることになり、そこで、自分の中で納得をしていないことをやらざるを得ないという状態だった。それも今思えば、私のその事業に対するオーナーシップのなさが招いていることだったかもしれない。立場に寄らず、事業とそれが社会にもたらすものの意義を真剣に考えていたならば、それについて経営者と臆さず議論せずにはいられなかったはずだ。

こうしてみると、「組織の内側に向けた取り組み」と「外側に向けた取り組み」に線引きをしていたことがやはり、経営者との関係性にも影響を与えていたのかもしれない。

このテーマは、それまで経験してきた能力の成長とは、質的に違うもののように感じる。コミュニケーション能力という切り取り方もできなくはないが、自分自身のスタンスの話だ。そうか、そのときに私は自分の立場が変わったにも関わらず、「組織の一員」という意識を持ち続けていたから価値観の違いから起こる課題にぶつかったのだろう。

同じ課題に何度かぶつかり、私は、誰かのビジョンを実現するお手伝いをするという立場ではなく、自分自身がビジョンを持ち、それを実現するプロセスを通じて人と関わるという立ち位置に移動することにした。人と一緒に取り組まないわけではない。しかしそれを「誰かのビジョン」と思っているうちは、うまくいかないだろうというのが、今、考えていることだ。「事業を自分でつくる」というテーマには、組織を離れて以降、5年くらいい続けているのかもしれない。その中で今振り返ったような立ち位置の変化を明確にしたのがここ数ヶ月間のことだ。

7.  繰り返し現れる構造を活かす

 

組織を離れて以降、コーチングにおけるビジネスという領域だけに関わることの限界を超えるべく、様々な流派の思想やアプローチを学び実践してきた。これは、不動産業界の中で、領域をスライドさせたときと同じ構造を持っているはずだ。

今は、新たな点をつくろうとしている感じにも思える。それが、これまで経験してきた構造の繰り返し、フラクタルになっているとするとどうだろう。と、考えると、最近、「コーチング業界で既にある事例にお手本を求めるのは違うのではないか」という気がしてきた理由も見えてきた気がする。

・事例から学ぶ
・とことん真似てみて、そこからアレンジをする

・言語化と構造化を続ける
・言語化や試行錯誤を後押ししてくれる人がいる

というのはこれまで、点が線、面、そして立体になっていくプロセスでのポイントになっている。そんな中、今つくろうとしているのは「事業」という新たな点であり、それはコーチングを含めたいくつかの要素の集合体でもあるのだ。そしてこれまでとはさらに大きな質的変化があるとすると「構造化」自体が独自のものであるという点だ。不動産業界に身を置いたときに行った言語化と構造化は、今思えば、その業界の中の考え方に則したものだった。コーチングという領域においては、現在まさに、「業界として言われていることではなく、自分なりの構造」をつくろうとしている。そしてそこにはコーチングに限らず、人間存在全体に関することが要素として含まれている。

ここで大事になってくるのが、例えば、「事例から学ぶ」ということについて、今は「その事例の構造自体から学ぶ」というように「学び」自体も立体化させる必要があるということだ。どういうバックグラウンドを持った人が、どういう領域から、さらに何を展開させどんな構造を作ったか。そしてそのプロセスをどのように行ったか。自分自身の立体構造が複雑になっている以上、参考とする事例についても立体構造として、かつ動的なものとして捉える必要があるだろう。同様に、「真似る」というのも、表面的にやっていることではなく、構造として真似るということが必要になってくる。必ずしも自分が取り組もうとしている領域でなくてもいいだろう。今、コーチングという要素と経験を用いながらビジネスを展開している人で、何人か参考にしてみたいという人や事業が思い浮かぶ。特に興味があるのは、どんな風に点の集まりから立体を構成していったかということだ。それは、現在の状態を見ただけでは分からないだろう。

しかし、立体の構成プロセスについては自分なりの上手くいくプロセスというのもあるかもしれない。これまでの経験を元にすると、私の場合は全体として「こういう領域の人にこんな風に貢献したい」というのが明確であれば、そのために必要な要素は自然にというか、必要に迫られて体得していっている。現在、新たな構造として向かいたい先はある程度見えているので、そうすると必要なのは、その中に必要な要素野中でまだ点になりきれていないものをしっかりと点にするということだ。その過程には、先ほど整理した点が線、面、そして立体になっていくプロセスに必要なポイントが役に立つ。

「成長はフラクタルな構造だ」ということが、今、知識から体験としての実感になりつつある。そして同時に、これまで、偶然か意図してか、自分が携わることについて言語化や構造化をすることを後押ししてくれる人がいたことに強い感謝の念が湧いてきている。対話という手法を超えて他者の自然な変容や深化を後押しするにはどうしたらいいかというのが最近のテーマでもあったが、それについても一筋の光が見えたように思う。2019.11.30 Sat 20:14 Den Haag