013. 見えるものと見えないもののあいだ -真善美の生まれた場所 -
人生を豊かにするのは世界の全てを言い表すことのできる真理ではなく、果てなき探究を続けさせてくれる問いである。
約1ヶ月半前にコーチから受けた問いを思い出して、そんなことを思った。
「自分にとっての真善美をつくり出しているものは何か」
例えば数値的な目標や効率、経済合理性を追う人生および社会において、この問いは全くもって意味をなさないものに見えるかもしれない。
もしかすると、むしろ真と善においては嫌というほどそれに向き合う必要性に迫られ、すでに人生をその二つの軸を基準に生きているかもしれない。一方で、自分自身にとっての美をひたすらに探究しているということもあるだろう。
しかし自分にとっての真善美のそれぞれの背景にあるものと深く向き合い、それらを統合するという機会に巡り合うことは生きている中でどれだけあるだろうか。このテーマにこの先の人生、どれだけの深さでどのくらい繰り返し向き合うことができるだろうか。
これまで向き合ってきたことがそうだったように、今回、このテーマについて書くことはも のがたりの始まりに過ぎず、これから何度も、言葉を綴りそこに体験を積み重ね、感覚を照らし合わせていくことになるだろう
1. 真善美とは何か2. オランダ社会に身を置き養われた「善きこと」3. 日本社会に身を置き培われた「善きこと」4. 結ばれた約束としての善5. 実態のない世界を生きる者にとっての真とは何か6. 計測できないものを共有するということ、真は本当に存在するのか7. 今ここにある美8. 静けさの中で聞こえてくるもの9. 真善美の生まれた場所
1. 真善美とは何か
古代ギリシャの哲学者プラトンは、「人間の精神が求める普遍的な価値のあり方」を「真善 美」と表現した。実際のところ、「プラトンが提唱した3つの価値領域について、日本語で真善美という言葉を当てはめた」という方が適切だろう。真善美はインテグラル理論における四象限とも重ね合わせることができる。

端的に言えば、真とは実現できること、善とは善いとされること、美とは美しいと感じるこ と。
–真善美について詳しくはこちら 「何かが満たされない」はなぜ起こるのか インテグラル理論超入門①世界を色どり豊かに捉える視点
別の言い方をすると、真とはその存在を視覚・聴覚・触覚等を持って認めることができ、他 者との間でもその価値について合意することができるもの。善とはその存在について視覚・ 聴覚・触覚等を持って確認することはできないが、他者との間でその価値ついて合意するこ とができるもの。美とは、自分自身の内なる体験によってのみ、その存在と価値を確認する ことができるものと表現することができる。
そんな前提に立ったとき、今度は「真善美」というものが果たして存在するのだろうかとい う疑問が湧いてくる。それは「他者」という存在および「合意」という行為についての疑問 でもある。
そもそも、他者は本当に存在するのか。合意というものが本当に存在するのか。
これらの問いについて探究を始めるとまた途方もない旅になってしまいそうなので、一旦は 「他者」と「合意」は、自分自身の認識上存在していれば「存在する」とみなすことにし、 話を進めることにする。(もしかすると今後このテーマについて深めていくにあたり他者と は何か、それはどこにどうやって存在しているのかということも改めて向き合う必要が出て くるかもしれない。)
ここまで書いた言葉の定義については、それこそ、他者もしくは社会との間で合意されている定義である。ここから私にとっての真善美とはそれぞれ何かについて考えていく。
2. オランダ社会に身を置き養われた「善きこと」
今私の中に、最も強い実感を伴って存在しているのは善だ。それは、私が、生まれ育った日本という国を離れ、物理的な他者との関わりもかなり限られているということに関係してい る。オランダの小さな街で一人仕事をしている私にとって、立ち現れてくるほとんどのこと は心の中の出来事なのだ。
そして、心の中にある価値観や判断基準の多くが日本社会およびこれまで関わってきた人と の間で「善し」と合意されていることなのだということを異なる文化や慣習・価値基準を持っ た人たちや社会と関わることによって実感している。
中には一体となっていた慣習からはすでに距離を置き始め、現在身を置く社会における「善 し」が現れてきている部分もあるだろう。例えばその一つは、正直であること。率直であること。これらは、オランダに来てますます善いと思うようになったことだ。
私が知る限り、オランダでは「察する力」よりも「コミュニケーションを交わす力」の方が ずっと重視されているように思う。それはオランダが歴史的に見て貿易を通じて栄えた小国 であるということ、そして現在、多くの国から来た移民が暮らしているという背景があるだ ろう。
「自分にとっての当たり前が他の人にとっては当たり前ではない」ということがオランダに暮らす人々にとっての「当たり前」である。
他者との間に合意される「善きこと」の前提や土台として「正直さ」や「率直さ」があると すると、正直さや率直さも私および私が現在身を置くオランダという社会における「善」の 一部だと考えられる。
一方で日本社会においては正直さや率直さに対する認識は多少異なっているだろう。日本社会における善は最も強い土台として共同体が存在するように思う。確かに善は他者との間に合意されるものなのだが、そのスタート地点としていきなり共同体が登場するのと、まずは個がありその上で共同体があるという認識があるのでは、善の質感が大きく違うのではないかと思う。
日本的な善は中心のない中空構造であり、欧米(と括っていいのかは分からないが)的な善 は自分自身が中心にあり、自分と他者をつなぐ線および線の集合体の面(もしくは立体)に おける、善という構造になっているように思う。
話が逸れてしまったが、現在、私が分かりやすく認識できる善の一部はオランダという環境 に身を置くことによって養われた善だという背景が改めて明らかになった。
しかしそれは一部にすぎない。私の中にはまだ、30年以上、もしくはもっともっと長い間、 日本という場所と文化の中で培われてきた善がしっかりと根を張っている。
3. 日本社会に身を置き培われた「善きこと」
例えば礼節という言葉。
礼儀正しさ。節度を保つ。
これらはいずれも、「他者の存在を前提とした自分自身の在り方」を示している言葉だ。
私の場合、それは人との距離の取り方、とりわけ言葉に現れる。距離が言葉に現れるのは、 現在の環境上、そもそも他者とは物理的な距離があることが前提となっており、多くが音声 のみのやりとり(対話)を通じた関わりであり、言葉(および声)が相手との距離感を調整 する唯一の媒体であるためだ。
相手をどう呼ぶか、どんな言葉を使うか、どれくらいの頻度で連絡をするか。それは相手の 意識と、相手との間に生まれる関係性に大きな影響を与える。
コーチにもいろいろなタイプがいて、様々なスタイルがあるが、私はクライアントとの間に 比較的距離を置くタイプだろう。距離感と礼節という言葉は私の中では非常に関係性が深 い。礼節を保つことはクライアントが本来持っている力を発揮する後押しになると考えているが、これは、そもそもクライアント自身が普段身を置く現実世界に置いて自分の居場所を 獲得することができており、自分の存在が条件なしに認められているという感覚を持ててい るという前提が必要だろう。
相手がどんな立場や年齢、経験をしている人であっても「その人が自分の人生の意味を生きるためのリソースもしくはリソースを獲得する力はすでに持っている」という前提に立って いるというのは、私がもともと持っている美意識のようなものにつながるものであり、か つ、コーチという職業を通してさらに培われたものなのだと思う。
礼節については、生まれ育った日本という社会と、コーチという職業が持つ一般的な、かつ自分自身の倫理観によって育まれたものだろう。
善とはまさに、倫理と呼ばれる領域でもあるが、こうして考えてみると現在の私に最も大き く影響を与えているのは、コーチという職業における倫理かもしれない。もしくは、「コー チという職業を全うする上での人間観」という言い方もできるだろうか。
そこから分かるのは、私にとって「コーチ」とは「仕事」ではなく「生き方」だということ だ。コーチという言葉についても広義・狭義で様々な意味解釈があるが、私はコーチとは、 向き合う相手が自分自身の持つ力および可能性を発揮するための環境(関係性を含む)を協働してつくる人だと今は認識している。
「コーチとは」については以前自分自身のコーチングについて言葉にしたことがあるが、ま た改めて別の機会に最新の認識を機能レベルから原理レベルまで言葉にしてみたい。
4. 結ばれた約束としての善
善のことに話を戻すと、「人はどのように人生を生きると幸せなのか」という問いに辿り着 く。「あなたはどのように人生を生きると幸せなのかと問うこと」とも言えるだろうか。
どのように生きるかが善だとすると、何を(達成)するのかが真、あなたは誰なのかという のが美ということになるだろうか。ここで言う、誰というのは、社会的な認知における「何者か」ではなく、精神的な存在としての「何者か」である。
How do you live?What do you do?Who are you?
英語の使い方が正しいかは定かではないが、ニュアンスとしては、真善美について考えることはこれらを問うことにも近いのだろうと思う。
「人はどのように人生を生きると幸せなのか」という問いに対して、「命を全うする」とい う言葉が浮かんでくる。私たちは、種子として生まれる。そこにはすでに様々な進化や変容 の可能性が埋め込まれている。その可能性が開花するプロセスにおいて、喜びや悲しみ、葛藤といった多様な感情を感じる。やってくるどんな感情も全て感じ切ることが、命を全うするということなのだと私は思う。
ともすればこれは私自身の美意識、美の領域の話にも思えてくるが、与えられた命の種子を育て、生きることは、いわば、神と人間との間に約束されたことであり、それこそが最深部 にある善なのではないかという気がしてくる。それともやはりこれは、美の領域なのだろう か。今の時点で答えは定かではないが、真善美のどこかに、「神(宗教的な特定の存在をさ すのではなく、万物を創り出した宇宙の始まりの瞬間のような存在であり概念)と人間との 間に交わされた約束」というものが隠れているような気がしてきている。善と美の境目を考えるとやはり自分と他者という存在についての検討が必要となるだろう。
ここで、視点を切り替えて真の領域に目を向けたい。
5. 実態のない世界を生きる者にとっての真とは何か
私にとって、真とはなんだろう。「これ以上ない事実だ」と他人と合意できそうなことは何だろう。
私のコーチという生き方における真とは何だろう。
現在の私が考え得る限りで存在しているもの、かつ有限だと断言できるものは時間だ。 日が昇り、沈む。庭の草花が茂り、枯れていく。
時間というのは人間がつくりだした概念だとも言えるが、実際にその時間と呼ばれるものが 巡っていて、限りがあるということは誰しもが実感しているだろう。時間に限りがあるのか は分からない。しかし少なくとも人間の命には限りがある。私にとってそれは、揺らぐこと のない事実として存在している。
この感覚は、身近な人の死を経験しているということが大きく影響しているだろう。亡く なった人の声を聞くことのできない私にとって、鼓膜を揺らしている(と思われる)振動を 受け取ることができないということは、その人の不在を意味する。
一方で、現在の私にとって、仕事もしくは人との関係性に於いて真なるものが存在している のだろうかという疑問も湧いてくる。自分が関わる多くの人について、私はその物理的な存 在を確認したことがないのだ。
例えば今、すでに高度な人工知能が開発されている世界に生きているとしたら、今対話をし ている相手が、人間が生きる上で出会う喜びや葛藤をプログラムされた人工的な存在だった としたらどうだろう。
生まれたときから、コーチという職業に就くことを定められ、そのためのトレーニングを ヴァーチャルな環境の中で積み続けている。そんなSFのような世界に生きているわけではないという想像はできるが、それが絶対にそうではないと、どうやって確認することができ るだろう。
これも私の職業と深く関わることだが、私は実態のあるものを社会や他者に提供しているわ けではない。
対話という形のないものを共にする。そしてときに、言葉さえ交わさないこともある。
そんな中で、確かにそこにあると言えるのは、時間だけなのだ。
6. 計測できないものを共有するということ、真は本当に存在するのか
ここで言う時間とは、計測することができる「クロノス」と呼ばれる時間である。となると 同時に、私は他者と、それぞれが主体として感じる「カイロス」を共有しているということ にもなるだろうか。
カイロスはそれぞれの人の中にある内的な時間でありその概念上、本来 共有することはできないものとして位置付けられるだろう。しかし、私はコーチングセッ ションの際に、クロノスだけでなくカイロスを共にしているという感覚がある。
一人一人の 頭の中には固有の宇宙が広がっており、その中では時間・空間の行き来を自由に行うことが できる。その内的な宇宙を、私は一緒に旅しているのだ。ただ、結果として私自身および他 者が合意できる事実は、クロノスという計測された時間が過ぎたということだけである。
コーチングフィーの設定が難しいと感じてきたのも、クロノスではなくカイロスを共にしているからだということが、ここに来て肚に落ちた。
共有されたカイロス、間主観的な時間を示す言葉は何かあるのだろうか。それについて調べ だすとまた長くなりそうなので、それについてもまた別途深めるテーマとしたい。
今のところ、私にとっての真とはクロノスを共に過ごすということだけである。本当にそれ だけだろうか。計測可能であり他者と合意可能なこととして「実現できること」は他にはな いのだろうか。
これは考えるほどに難しい。私は一体、社会に対して何をしているのだろうかという気に なってくる。考えれば考えるほど、今の私にとって「真」とは、その存在を疑いたくなるも のなのだ。
私にとって、自分が関わる相手はその存在そのものが真とは言えず、私に関わる人にとっても私の存在そのものは真とは言えない。これは私が特殊な環境に身を置いているがゆえに持つ感覚なのだろうか。
東京で企業に勤め、組織開発に携わっている頃、組織の状態を計測するアセスメントをプロジェクトの際に必ずと言っていいほど活用していた。売り上げや離職率、コミュニケーショ ンの頻度。
確かにそれらは何かを示す指標であり数字なのだが、その数字を見ても、結局のところ何が 分かるというのだろうか。
などということを考える私は、今、随分と、見えない世界の領域、インテグラル理論の四象 限で言うところの左側の象限にだけ意識が向いているのだろうか。
物理的なものや計測可能なものをないがしろにしているという感覚はないのだが、今の私に とって、自分と他者との関係性における真の領域というのはあまりに実感が伴わないのだ。
真というのは、多くの人にとって最も分かりやすい領域なのではないかと思っていたので、 こんなにも実感が伴わないということに今驚いている。これはそもそも、私自身の真の領域 についての認識にバグのようなものがあるのだろうか。物理的に日本という場所に身を置いていないため、私にとって日本についての多くのことが 実態ではなく認識であり、同時に、日本にいる多くの人が認識していることが(私自身が認 識していることも含めて)幻想のようなものに思えている。
自分にとっての他者も同様に幻想のようなものに思えるのだが、しかし、幻想であってもその他者、自分とは違った存在に全力で向き合っているのだという実感はある。しかしそこで客観的に捉えられるのは結局のところクロノスという時間だけ。
他者の内的な宇宙を一緒に旅していたと思っていたが、結局それは、果てしなく広がる自分 自身の内的な宇宙の一角に過ぎなかったのだろうか。
今、音のない宇宙空間でひとり、迷子 になったような気分だ。
そんな私にとっての美とは何なのだろう。
7. 今ここにある美
これまでの経験において、そして今この瞬間に、「意識を向ける対象と一体になった存在と しての美」がどんな質感として私の中にあるだろうと感じてみると、そこには静けさがあっ た。それは、余白やスペースとも言い換えることができる。
静けさの感覚を味わい、さらに私の中に二つの確信が生まれてきている。
一つは、私にとって静けさというのが美なのだということ。もう一つは、美とは、今ここにある体験から実感するものなのだということ。
今体験していることを言葉にすることは容易ではないが、だからこそ、この静けさや余白、 スペースの感覚をもう少し言葉にしてみたい。
まず今ここにあるスペースの感覚は、無限である。「たとえそれがどんなに小さなスペース であっても、無限のスペースにつながっている」と言えばいいだろうか。スペースを、物理 的な空間としてイメージしてみると、身体の中にピンポン球ほどの空間が空いていると同時 に、その空間は、物理的な境界を持たない空間として、身体の内側、外側、さらにその外側までずっとつながっているという感じだ。
そしてその空間には静けさがある。そこにある静けさは、無機質な静けさではない。卵から 孵ろうとしている雛が卵の内側をコツコツと啄く音を聞くために親鳥が息をひそめているよ うな、そんな静けさがそこにはある。
どんな存在もそのままにそこにいられるようなあたたかな場所。それが私の中にある静けさ であり、スペースであり、美でもある。
この、美に関する感覚は、どこからやってきたのだろう。何につながっているのだろう。
浮かんできたのは、母親の胎内にいるとき向けられていた眼差しである。そっと耳を澄まされ、そこにある存在として、ただただ祝福を向けられた。その対象だったときの記憶は意識の中にはないが、妹が生まれる前にお腹の大きな母と一緒に検診に行き、そこにある小さな 命の鼓動に耳を澄ましたことは鮮明な記憶として今も残っている。もしかすると、自分にとって大切なものとつながる体験だったため、何度も繰り返し思い出すことで、記憶が鮮明 なものとなっているのかもしれない。それが何かはそのときにはまだ分からなかったけれ ど、そこにいる大人たちが「微かな鼓動」を大切なものとして扱っていたことは小さいなが ら感じていたのだろう。
もし妹がいなければ、そんな体験もなくて、私にとっての美というのはまた違ったものに なっていたのだろうか。
それとも、そんな風に小さな音に耳を傾ける両親の元で育ったのなら、やはり同じような美意識が育ったのだろうか。
思い返せば私にとって世界はいつも少しばかり騒がしくて、それでもどこかに小さな静けさ があった。
幼稚園のときに中耳炎か何かで耳が聞こえなくなり、「そのときはいくら呼んでも返事をし ないものだから随分と怒ったものの後から耳が聞こえなかったと分かって怒ったことを申し 訳なく思った」という話を母から聞いたことがあるが、私には特段何か嫌な思いをしたという記憶はない。聞こえなかったのだから、怒られたことさえも聞こえていなかったのだろう し、きっと、私にとっては静かで心地の良い世界にいたのだろう。
今、オランダと言う環境が心地良いのも、絶対的に耳にする日本語が少なく、そして、それ以外の音も少ないからだと思う。
8. 静けさの中で聞こえてくるもの
こうして振り返ってみると、もしかしたら私は、他の人には聞こえない何かが聞こえている のではないかという気がしてくる。たとえるなら、私にとって人の話はミルフィーユのようなものだ。まさに、真善美のように、いろいろな層が重なりあって聞こえてくる。それが美しい音楽を奏でているようなこともあれば、悲鳴のような不協和音に聞こえることもある。
しかし、不協和音に聞こえる音も、よくよく耳を澄ますとその中に必死に奏でられているメ ロディーがあることに気づく。そこにある音や響きの一つ一つを聴くことができたとき、音 楽は空間を包む大きな絵になる。そうなるためには、静けさとともにあって耳を澄ますこと が必要なのだ。
そう言えば、オランダに来てから家にバスタブがないので久しくやっていないのだが、日本で最後に暮らしていた家では、ゆったりとしたバスタブにお湯を張ってその中に横になり、 鼻と口の先だけ出る状態になって浸かるのが好きだった。頭と耳がすっぽりお湯に浸かると 地上とは全く違った、水の中の音、小さな鈴を振るような音が聞こえてきて、その音とお湯の感覚に身を委ねるのは至福の時間だった。
星のちらばる宇宙に一人浮かんでいるような感覚。
それは先ほど感じた、内的な宇宙に漂っている感覚にも近い。
そして想像するにこれはきっと、やはり母親の胎内にいたときの感覚やそのときに聞いてい た音にも近いのだろう。
きっと人は、おなかの中にいるときから色々な音を聞いているのだ。私も、広い世界に出る 前から、そっと水の向こうから聞こえてくる音に耳を澄ませていたに違いない。
9. 真善美の生まれた場所
意味を持たない、世界を文節しない、振動としての音。あたたかさを持ちながら、常に外界とつながり循環をする流れ。
意識が生まれるずっと前から身を置いていた場所。
それが私が美しいと感じるものなのだ。
きっと、それは、今世で生を受ける前から身を置いていた場所、もしくはあるときは身を置くことを強く望みながらもそれが叶えられなかった場所なのだろう。
私に取って静けさとは、そこに存在するどんなものにも価値判断を向けず、ただそこにある ということを許容している状態、同時にそこに礼(敬い)がある状態である。
あたたかさも静けさに近いが、さらに祝福や祈りがある。流れとは異世界との間に橋がかか り、今あるものが固着せずに絶えず入れ替わっている状態。
私にとっての真善美の背後にあるのは、意識を獲得する前の世界での体験だったのだろう。
そこにはカイロスの時間があり、一体でありながらも異質な存在に対する見守りと祈りと適切な距離感があり、存在そのものや意味を持たない音にただただ耳を傾ける静かな存在があ り、留まることのない流れがあった。
そんな場所に今、還りつつあるのだろうか。
そこからまた再び生まれるのだろうか。
そのときはまた私にとっての真善美が更新されるのだろうか。
この先のことはまだ分からないが、今私の中では、バラバラに見えていた真と善と美が、生まれ故郷で出会い、手を繋ぎ、一つとなっているような感覚が生まれている。
私の中に生まれた、統合された真善美のイメージ

2020.8.17 Mon 10:50 Den Haag Sou Satoh