012. あなたとわたしのあいだ -「関係性を見つめるわたし」を見つめるわたし -

協働者とわたし、クライアントとわたし – 観察自己を観察する–
リビングでのうたた寝から目覚め、パソコンを持って書斎にやってきた。隣の保育所の庭で遊ぶ子どもたちを見守る女性と目が合う。空は、鮮やかな青が広がっていた昼間とは違って白をふんだんに含んでいる。庭の木は、私から見て右側、西の方向からオレンジを含んだ光で照らされている。
うたた寝をする前、観察自己と目撃者について考えていた。約2ヶ月ほど前に自分のコーチからもらったテーマが、「自己と他者の関係やそこに起こる現象を見つめ、それがどうあるべきかと考える観察自己から、それらをさらに意図を持って観察している自己(目撃者・美意識)を見つめてみる」というものだった。(その時点でさらに、もう一人それを観察している自己が生まれることになるが、それをどう扱うかについては取り組みののちに改めて考えてみたい)
まずは3つくらい「自己と他者の関係性」について見つめる観察自己を出してみると良いということで、いつもならそれについて言葉にしていくところだが、今回はまずは、最近絵を描いているパステルで表現してみることにした。
現在の時点で、2種類の「自己と他者の関係性」についての絵を描いている。今日このあと、もしくは明日改めてもう1つ取り組んでみたいが、まずはここまでのところを言葉にしてみる。
まず描いたのは、「協働者との関係性」についてだ。協働者とは、コーチングのクライアントではなく、言葉づくりや企画づくりなどのプロジェクトを一緒に行っている企業およびその企業でご一緒している人を指している。
もう一つが「クライアントとの関係性」だ。ここでは、クライアントはコーチングセッションをご一緒している個人を指す。
どんな取り組みをしようとも、一般的には「クライアント」なのだが、実際に描いてみると私にとって、「プロジェクトの協働者」と「コーチングのクライアント」は違う関係であることが分かった。
まず、大きな違いは、「協働者」と「わたし」は、共に具体的な何かをつくり出す関係だということだ。「つくり出す」ということにおいてはクライアントとの関係にも同じことが言えるが、つくり出すものが何かが違う。絵で見るとその関係性は明らかに違うのだが、それをどうにかこうにか言葉にしてみる。
協働者とわたしは常に重なっている部分がある。毎日毎日協働しているわけではないが、そのプロジェクトにおいては、常に重なっている状態であり、その重なり合った部分から生まれるのがサービスや言葉、周囲への影響などである。長い時間ご一緒していると、一緒につくり出したものから、そしてそれぞれがその他の取り組みから影響を受け、それぞれが変化をしていく。その結果、重なったところから生まれるものも変わってくる。それがまた、自分自身や周囲への影響を生み出していく。これは、「お互いの経験やアイディアを重ね合わせることから周囲への影響(商品やサービス・言葉)を連続的に生み出している関係」と言えるだろう。言葉にしてみて感じるのは、確かにこういう関係は私にとって心地よく、例えば自分だけが一方的にアイディアを出し続ける関係や、相手が一方的に意思決定をしていく関係は私にとっては協働とは言えず、自分の力が存分に発揮できる関係ではないと感じる。
一方、クライアントとの関係を描きながら、クライアントとは「重なり」が生まれないということに気づいた。協働者との関係と同じく、「一緒に何かをつくっている」ということは、感じている。しかしつくっている内容は、明らかに協働者とのそれと違うのだ。私はクライアントと何をつくっているのか。突き詰めるとそれは、「今この瞬間に共に生きているのだ」という体験なのだと思う。
私がクライアントと共に生きるのは、ある意味擬似的な世界だ。「擬似的な」というのは、クライアントにとって私との関係性はクライアントの普段の仕事とは違う世界にあるということだ。ものすごく極端に言うと「話した」という記憶や、メールなど以外に、クライアントにとって私が同じ世界に確かに生きているという証はどこにもない。そして、クライアントの取り組むことは私がいなくても粛々と為されていく。協働者と違って、普段短いメッセージのやりとりをすることもない。セッションとセッションの間にクライアントが自分で考えたことを言葉にして共有してくれることはあり、私もそれに対して感じたことを言葉にして返すが、日常の中の具体的な行動について相談や質問を受けることはないし、私もそういうやりとりは望んでいない。あくまで、クライアントは、私のいない世界を生きている。
ここまで書いて、協働者とクライアントとの関係の決定的な違いは、立ち現れる「課題」を誰のものと考えるかということだと分かる。協働者との間において、課題はともに解決または解消していくものであって、誰のものかと言うと「わたしたちのもの」ということになる。
しかし、クライアントの課題は私の課題になることはない。クライアントの課題はあくまで「クライアントのもの」ということになる。
というと、クライアントとわたしの間において、「わたしたち」という関係が発生しないかというとそうでもない。私はセッションの時間は相互に影響を与え合いながら、ときに同じような感覚を味わう、「わたしたち」の時間だと思っている。クライアントの体験や歴史があり、その場で湧き上がってくる考えや感情がある。それに対して、生身のわたしがいて、それらを受けてどんどんと変化をしていく。そしてその変化を伝え、今この場に新たに生まれたものを伝えていく。そのとき、わたしたちは協働者になっている。そうしてクライアントは、自分自身の内側から出てくるものが他者に与える影響やそこから生み出されるものを知り、その体験を持って、現実世界の中で、実際に利害関係や関係性のある他者と協働をすることになる。
コーチングセッションで手にするものが何かとあえて言うと、それは今この瞬間に生々しい自分と他者が共に生きているという強烈な体験をすることであって、変化はそのプロセスでもあり、副産物でもあると言えるかもしれない。
協働者とわたしの関係が「お互いの経験やアイディアを重ね合わせることから周囲への影響(商品やサービス・言葉)を連続的に生み出している関係」であるとするならば、クライアントとわたしの関係は「自分自身の内に生まれるものを重ね合わせることから、擬似的な協働を生み出す関係」と言えるだろうか。
「擬似的な」というと、つくりものっぽいイメージもついてくるが、そこにあるのは、生々しい命であって、だからこそ、その時間がクライアントの人生に影響を与えていくのだと思う。
協働者との時間とは違って、コーチングセッションでは私はクライアントとともに何か具体的な言葉やサービスをつくっていくわけではない。私はひたすら、聞こえてくるもの、私に見えるもの、私の中に新たに生まれたものを返していく。そこで生まれるものがあるとすると、ものごとや感情・事象に対する新たな意味づけだろう。その中から何を受け取り、どう使っていくかは、あくまでクライアント自身が決めるものだ。
一見、この関係には分断があるようにも見える。現実世界に関与しないという意味ではそうだろう。おそらく私は、クライアントと友人関係になることはない。(今後この感覚は変わるかもしれないが、今のところはそう思っている)クライアントが、自分が生きる世界を自分の足で歩み、自らそこにいる他者と協働できるようになっていく、幻のような存在でさえありたいと思っている。
ここまででまずは、「協働者とわたし」および「クライアントとわたし」についての関係性が見えてきた。もう一つ、考えるとしたら何だろう。「パートナーとわたし」だろうか。これは、「協働者とわたし」にも近い気がしているが、多少は複雑になるだろう。
「パートナーとわたし」ついて、そして、「3つの観察自己とを見つめる目撃者」についてはまた明日、言葉にしていきたい。2020.2.7 Fri 18:06 Den Haag
パートナーとわたし、そして「関係性を見つめるわたし」を見つめるわたし
随分と風が強くなっていている。ゴーゴー、ピューピュー、バーーーーと、色々な音が混ざる。細かい雨が降っているのか、落ちてくる雨粒は見えないが、窓ガラスが小さな水滴で埋まっている。隣の保育所の庭には、小さな家の形をした遊具が倒れている。これは、春の嵐のようなものなのだろうか。この嵐が去ったら春がくるのだろうか。だとすると、冬はどこに行ってしまったのだろうか。
と、まだ起こってもいないことを気に病んでいることに気づく。現実は、今、嵐の中にいるということだけだ。
一昨日書いた絵を元に、もう一度、協働者とわたし、クライアントとわたしの関係性を描いてみた。そしてさらにパートナーとわたしについても絵にしてみた。ここで言うパートナーとは、日本語で言うと交際相手であり、ときに生活空間を共にするとともに、ビジネスという領域に関わらず様々なことに共に取り組む相手でもある。
協働者とコーチングのクライアントは結構違う関係性だと感じたが、パートナーとの関係性もまた違う。わたしの場合はパートナーとは様々なことを協働したいという想いがあるので、どちらかというと協働者に近く、相手との接点や生み出すものがより多様になる。そしてわたしにとって大事なのは、共にいながらも世界に開いているということだ。一部の面についてはお互いの間にのみそっと置くものもあっていいと思っているが、「二人の世界」にいるようになると具合が悪い。あたらしい人にもものごとにも共に出会い、なおかつ、それぞれが独自の出会いや時間を持ち、変化し続けているというのが理想だ。お互いがお互いの鏡のような存在になることもあるが、クライアントとの関係においては、わたしは相手を移す鏡の役割に徹しているので、パートナーとの関係性とはやはり大きく違うだろう。
もう一度、それぞれの関係性を見てみよう。協働者とわたしについて見つめてみる。この関係性を見つめるわたしは、「協働者とともにあるとき専門家としての知見を提供しながらも、相互発達的な関係でありたい」と思っている。相手が決めたものをつくっていくパーツになるのではなく、どんなものをつくるかさえも共に考えていきたいし、つくりだすものを固定的なものにするのではなく、変化し続けるものにしていきたい。それぞれの変化があらたな可能性をつくり出す。そんな関係でありたい。だから柔軟にアイディアを変化させ、軽やかにチャレンジをしていくベンチャーのような企業と相性が良いのだろう。この関係を見つめるわたしは、専門家であり、自分自身が成長を続ける人でもある。成長と言っても、表面的なスキルを身につけるのではなく、物の見方自体を深め続けたいと思っている。
クライアントとの関係性を見つめるわたしは何を思うだろう。この関係性を見つめるわたしは、適切な距離を取ることが重要だと思っている。クライアントと信頼関係を築きながらも、現実世界に影響を与えるようなものを共に作り出すことはない。セッションという限られた時間の中で正直に心を交わし、心を照らし、でも、その終わりには踏み出す背中を見送る。「待つ」「見守る」「一緒に味わう」というのはわたし基本の在り方と考えている。協働的で、共に変化をする関係でありながらも、よりクライアントに対して自立と自律を求めるわたし。自然な自分でありながらも、プロフェッショナルとして役割を全うしたいと強く思っているわたし。
パートナーとわたしとの関係性を見つめるわたしはどうだろう。パートナーとの関係性を見つめるわたしは、一番、「そのままの自分をそうだねと認めているわたし」かもしれない。それは基本的には他の人との関係を見つめる際にもそう思っているのだが、パートナーとの関係を見つめるときは格段、曖昧さや多面性、矛盾や流動性を許容したいと思っているように思う。これは興味深い。自分に対してはそうでありながら、相手に対しても同様のまなざしを向けることができているだろうかと自分を省みる。
協働者との関係性を描いたものは時間変化も含んでいるが、クライアントやパートナーとの関係を描いたものはそうはなっていない。実際にはここに描かれたものが、クライアントとの間ではセッションごとに、パートナーとの間では日々、色や形が変化をしていく。
とくに多面性や流動性を持つパートナーとの関係性においても、絶対的な安心感というのを、大事にしたいと、これを眺めるわたしは思っている。
もう一度、それぞれの関係性を見つめるわたしを巡ってみる。
協働者との関係性を見つめるわたし:躍動感や変化、率直さ、挑戦、遊びを大事にしたいと思うわたし 共につくり、共に喜びたいと思うわたし
クライアントとの関係性を見つめるわたし:役割に徹しながら正直で率直でありたい、全体性やその人らしさや今あるものを大切にしたい、限られた時間と空間だがそれにコミットし、クライアントを送り出したいと思うわたし 影のような存在でありたいと思うわたし
パートナーとの関係性を見つめるわたし:ゆらゆらと曖昧なものを抱擁し合いたい、どんな役割も方向性も手放したい、そのままでいられる場所でありたいと思うわたし
こうして見ると、パートナーとの関係性を見つめるわたしは一番母性的というか、こうあらねばならないというものを手放して、やわらかい自分を受け止めたいと思っているように思う。(自分に対してはそれは可能かもしれないが、一方でパートナーに対してはもっと父性的な目を向けているかもしれない)
なぜ、このように相手によって、それを見つめるわたしが望むことが変わってくるのだろうか。その一つはこれまでの経験と、相手との関係性の持ち方や環境も関わっているように思う。例えば、クライアントとの関係においてわたしが「適度な距離感」を保とうとするのは、クライアントとは基本的に1対1で閉じた空間(電子空間)の中で、ときに非常にプライベートもしくはデリケートなものを扱うため、ともすれば、強い親密性やそれが行き過ぎると依存性のようなものが生まれる可能性があるためだ。同時にこれまでわたしは多くのクライアントよりも年齢が若く、特にコーチになった当初は「若い女性」と見られ、必要以上に相手に緊張感もしくは緊張感のなさを生み出す場合があったため、「プロフェッショナル性」というのを自ら意識してつくり続けてきたという背景もある。今はオランダにいるということを最大限メリットとして活用するために「顔も見ない、会いもしない、だからこそ話せることがある」という立ち位置がいいのではと思ってもいる。コーチ・エィにいたときも、コーチには様々なタイプがいて、クライアントと会食をする人もいればそうでない人もいたが、当時の会長の伊藤守さんはクライアントとは会食をしないスタイルを取っており、わたしもどちらかというとそのスタンスに拠っていると思う。
改めて、それぞれの関係性を見つめる、3人のわたしを見てみよう。
協働者とは共につくること、変化することを大切にすべきだと思っているわたしクライアントに対しては専門家としての立ち位置を大切にし、クライアントを見守るべきだと思っているわたし
パートナーとは曖昧でやわらかいものをそのまま受け止めゆるやかに変化を楽しむべきと思っているわたし
この3つのわたしを見つめるわたしは、どんなことを意図しているんだろう。何を美しいと思い、何を望んでいるのだろう。
ここで見えてくるのは、「それぞれの相手との関わりを通じて、それぞれの相手と自分の持つものが、それぞれに花開くようにありたいと思っている自分がいる」ということだ。相手によって自分の立ち位置や関係性を変えようとすることは、一見、一貫性がないようにも思える。しかしそれらを見渡してみると、相手の持つ力可能性を発揮することに近づきたい、そしてそのために自分が安心していられる関係性に身を置きながら、その上で正直に、率直にありたいと思っている自分がいることに気づく。自分が心と一致しながら、持っているものを発揮することが、相手が持っているものを発揮することにもつながっていると思っているので、どこかに自己犠牲のようなものがあると上手くいかなくなる。しかし、常に同じスタンスでいると安心して一致していられるかというとそうでもない。だから、相手に応じて関係性の取り方を変化させるとともに、そのバリエーションを持つことで、自分の全体性を発揮することに近づこうとしているように思う。
ここまで考えてくるプロセスにおいて、特にコーチングのクライアントとの関係性は少し断絶的なのだろうかとも思ったりもしたけれども、(今後変化の可能性があるにしろ)この関係性の持ち方はクライアントとの関係性という側面においても、全体性という側面においても必要なものであり、バランスを取っているようにも思う。
3つのわたしを見つめるわたしは「関わりの可能性」を信じていて、それに対して、自分自身の生き方を持って取り組もうとしている。断続的であれ、連続的であれ、そこにある関係性とテーマには全力で向き合い、体験を通して、自分の思考と行動を変化させていきたいと思っている。
体験的で実験的で発見的。今ここを味わいながら悠久のときを思い、その中でゆったりと起こるゆらぎを見つめる。今のところそれが、「3つの関係性を見つめるわたしを見つめるわたし」のようだ。もしかするとそんなわたしは、壮大な試みの中に生きているのかもしれない。2020.02.09 Den Haag
協働者とわたし

クライアントとわたし

パートナーとわたし
