005. 「ものがたりを聴く」ということ

0. はじまり -「ものがたり」とは何か-

「人はものがたりを生きている」と思うことがある。それは、現在採用している社会構成主義を基にしたナラティブ・アプローチの考え方であるし、特にこの半年間、人との対話にこれまで以上に静かに向き合ってきた体験から生まれた実感でもある。
今日はこの、「ものがたり」について言葉にしていきたい。「ナラティブ・アプローチ」については独学で学んでいる範囲での知識なので、あくまで自分自身の体験と考察を元に、「ものがたり」とは何かを整理していく。今特に考えていきたいのは「その人全体のものがたり」とは何かだ。
以前、「コーチングと私」というテーマを深めたときにこんな表現をした。
− 人が自分の物語を語っていくと、だんだんと普段は脇に追いやられていた物語、見て見ぬふりをしていた物語、しまい込んでいた物語までも語り始める。それはその人全体についての物語でもある。
「ものがたり」について言葉にしていくとき、分かりづらいのが「物語」と「物語り」の違いだ。これらは音だけ聞くと同じように聞こえる。ここでは「物語」は、ある人によって語られた内容そのもの(名詞)を表し、「物語り」は語るという行為(動詞)を表すことにする。先ほど「その人全体のものがたり」と書いたのは、ここで言う「ものがたり」が「物語」にあたるのか、「物語り」にあたるのか、まだ分からないからだ。以前は「物語」と、語られた内容を指して書いたが、そうではない可能性もあると思っている。
「ものがたりを生きる」「ものがたりを聴く」ということについて深めていく前に、私たちが生きるこの世界を、俯瞰して眺めてみることにする。せっかくだから、宇宙から地球を眺めるところから始めたい。

1. わたしたちの生きる世界

真っ暗な空間。そこに空間があるかさえも分からない中空に目を凝らすと、無数の光の粒が見えてくる。暗闇の中の孤独な光だと思っていたものが、だんだんと増え、連なり、光の雲となって空を覆いつくす。音のない世界で聞こえてくるのは自分自身の呼吸の音、心臓の音。
それだけではない。耳を澄ませば鈴を振るような小さな音が聴こえてくる。自分の内側からなのか外側からなのか分からない。捕まえようとするほどに遠のくけれど、目をつぶって静かに呼吸をしているとまた近づいてくる。
そんな音を聞きながら、星の雲の広がる空の果てを探していくと、三日月のようにその片方の輪郭が輝く、ビー玉くらいの黒い円が目に入る。見つめていると、それは、十円玉ほどに大きくなり、ソフトボールくらいになり、バレーボールくらいになっていく。輪郭をなぞる光はどんどんと円を包む。そして、眩しい光が円の端から出てくるとともに、その円は、大きな青い球となり、それが命の輝きの結晶であることが分かる。表面を覆う紺色の水、深い緑。砂色の大地を大きな動物たちがゆったりと横切っていく。その球の中にある小さな島の一つに、暗闇の中に光の粒が集まっている場所がある。たくさんの建物、その間を行き交うたくさんの人。
その中の一人が、あなたでありわたしだ。
太陽が昇る時間帯を朝と呼び、太陽が昇り出す方角を東と呼び、自分たちが生きる星を地球と呼ぶ。その世界にあるものには名前がつけられる。見えるものも、見えないものも。今感じる感覚のことを「喜び」や「怒り」と表現する。毎日通う場所や人の集まりを「会社」と呼び、日々行う活動を「仕事」と呼び、「上手くいかない」と感じることを「課題」と呼ぶ。あらゆることには「名前」がついていて、その「名前」を使えば、それを人に伝えることができる。
本当にそうなのだろうか。
中学生のときに、「わたしが見ている林檎は、本当に林檎だろうか」という内容の詩を書いたクラスメートがいた。今思えばそのときに私は初めて、物についている名前は誰かがつけたものであること、人と自分が見ている世界が違うかもしれないこと、そして「世界を見ている自分がいる」ということを、おぼろげながらも実感したのだと思う。
地球を外から見ると、そこには海や山、街、人など視覚的に存在が確認できるものしか認識することはできない。毎日様々な場所で様々なことが起こる。それらは相互に関係していることがあるかもしれないが、一対一で影響を与えあっているものというのはほとんどなく、複数のことが関係し合い、何かが起こっているし、中にはビックバンのように何の前触れも何かとの関連もなく突然に起こったこともあるかもしれない。AということとBということがどんな風に関係があるかを決めるのは、それを見ている私たちだ。

2. 意味を与え、物語が生まれる

私たちの目の前には、日々、数え切れないことが起きている。その中から、特定の事柄にスポットライトを当てるのも、ある事柄と他の事柄を結びつけて考えるのも、私たち自身だ。小さな植物を「花」と呼ぶ人がいて、はじめてそれは花になり、ある出来事を「原因」と、ある出来事を「結果」と呼ぶ人がいて、両者の間には関係が生まれる。
私たち一人一人は、日々目の前に起こる出来事の一部を写真のように切りとって、その一つ一つに「名前」や「意味」を与えている。どんなシーンを切り取り、どんな意味を与えるかはその人次第だ。同じシーンを切り取ってもある人はそれに「驚き」という意味を与え、ある人はそれに「落胆」という意味を与える。後になってから、切り取られ方が変わったり、与えられる意味が変わったりすることもある。時系列が入れ替わることもある。記憶に新しいこと・強い印象を持つことは大きな写真として保存され、その写真の意味を補足説明するような他の写真が周囲に集められる。人は、中央にある大きな写真と、その周辺にある小さな写真を見ながら「これはこういう意味なんだよ」と話をする。これが「物語り」だ。そうして、ある行為や出来事とそれに対する意味づけが組み合わさっていき、「物語」が生まれていく。大きな写真が、悲しみという意味を与えられた写真であればそこには悲しみの物語が、喜びという意味を与えられた写真であればそこには喜びの物語が生まれる。語り手はそれを「自分の生きる物語だ」と思う。
しかしあるとき、それまでには見ていなかった小さな写真が見つかることがある。「あれ?このシーンは…」。出来上がっていた物語に、新しい写真(行為と意味)が加わるとき、新しい物語りが始まり、他の写真の意味や中央にあった大きな写真の意味が変わり、物語全体も、新しい物語へと生まれ変わる。
そのとき、同時にもう一つの物語が生まれる。「これまでの物語」が「新しい物語」になったという物語だ。「これまでの物語」が写った写真と、「新しい物語」が写った写真、それを見て、物語りをするとき、その二つを繋ぐ「行為」に「意味」が与えられる。

3. わたしが聴いているもの

私それが、物語られるのをじっと聴いている。私に聴こえてくる物語りと物語は
①それぞれの写真(シーン)について②それぞれの写真の関係性(つながり)について③集めた写真全体について
④集めた写真に、さら加わる写真(シーン)について⑤さらに加わる写真とこれまでの物語の関係性について
⑥さらに写真が加わった後の、新たな集まった写真全体について
⑦「これまでの物語」と「新しい物語」の関係性について⑧「これまでの物語」と「新しい物語」を含んだ新たな写真全体について
これらはそれぞれ、さらに「その行為を行なったことについて」(の物語りと物語)があり、これはある一定の時間が経った後に生まれる場合が多い。さらに「その行為を行なった『わたし』について」(の物語りと物語)が加わるが、これについては「わたし」を客観的に捉える必要があり、語られない場合もある。
これらの物語を生成するのに関わっているのが、感情や欲求、認識であり、これらはその人が持っている価値観や信念から生み出される。そして価値観や信念は、体験や経験から生み出されている。体験や経験は、無意識であるものもあるし、さらには実際に体験や経験をしていないけれど影響を受けているものというのもあると考えられる。それは前世と呼ばれるものや、親を含めた祖先から引き継いだもの、さらには宇宙的な粒子のようなものが降ってきて起こった化学反応のようなものもあるだろう。現在の私はそこまでは聴き取ることはできないが、そういうものの影響があるだろうという認識はしている。もしかしたら聴き取れているのかもしれないが、明確に「こういうものからの影響だ」と言えるほどハッキリと認識はしていない。
物語は、あくまで語られて生成されるものだ。だから、基本的には語られていることに耳を傾けているのだが、同時に、語られていないことにも耳を傾けている。それは、これまで身につけてきた知識と経験を元にしたテクニックと言うこともできるけれど、私には、テクニックではなく、まだ語られていない物語が、語られるのを待っているように感じることがある。そしてそれが語られたときに語り手のエネルギーが上がるような感じがしたときには、それが「語られるのを待っていた物語だ」ということが分かる。
物語り(行為)と物語(内容)、あえてそのどちらを私がよく聴いているかと言うと、物語りだ。私は、語られる内容よりも、語るという行為そのものを聴いている。なぜなら、それは今この瞬間でしか向き合えないことだからだ。人にとって意味があるのは、「物語りをする自分」の存在を認識することであり、それは、それを確かに聴き届けている人がいてはじめて実感することができるのだと感じている。

4. 「物語り」でも「物語」でもなく

改めて、最初の言葉に戻りたい。
− 人が自分の物語を語っていくと、だんだんと普段は脇に追いやられていた物語、見て見ぬふりをしていた物語、しまい込んでいた物語までも語り始める。それはその人全体についてのものがたりでもある。
「その人全体についてのものがたり」それは、「様々な体験から現在の意味を見出し(もしくは現在から体験の意味を見出し)、未来をつくろうとしているその人自身が今ここにいる」ということそのものだと言える。もし仮に、今この瞬間に「物語り」をすることができないのであれば、それが「その人全体についてのものがたり」だ。ただそれは、今この瞬間にそうであるというだけかもしれない。語られるものがどんなものであっても、それにどんな繋がりが見いだされようとも見いだされまいとも、どんな未来がつくられようともつくられまいとも、「その人がそうしている」という瞬間に耳を澄まし続ける。人は、生まれてから(もしかしたらその前から)今まで、そしてこれから、長い長い物語を生きている。「その人全体についてのものがたり」というのは、「体験してきた(もしくはその人に影響を与えている)全てのもの」という意味ではない。それらにどう今この瞬間に意味づけをするかということであり、それは、私が共にできる限られた時間で行われる「ものがたり」である。
感情、欲求、認識、価値観、信念、体験…様々なことを聴いているが、結局私が聴いているのは「物語りをしているその人そのもの」ということだ。今この瞬間に、何にどんな意味づけがされ、その結果その人の心身(を形づくる細かなもの)にはどのようなことが起こっているか。それが私が聴いている「その人全体のものがたり」である。それは、語る行為(物語り)でも、その結果語られたこと(物語)でもない。
「その人全体のものがたり」について、語る人はいない。私が受け取っていることは、結局のところ空気の揺れでしかない。それでも確かにその揺れをつくりだしている「その人」がいて、私はその人が、今この瞬間に空気を揺らし、生きているという、その証を聴いているだけなのだろう。私が聴いているのは「物語り」が「物語」になるそのときなのだ。

5. 終わりに –学びという鎧を脱いで–

そう思うと、これまで学び経験してたことは一体何だったのだろうという気持ちにもなる。「何を」「どうやって」聴くかは、相手にとってどれだけの意味があることだろうか。「ただその人が今ここに生きている」ということを感じるのならば、何も学ばずとも経験せずともできたかもしれない。しかしきっと、自分自身が生きてくる中で、「聴く」こと、「感じる」ことを阻害するようなもの(それは自分自身の感情であり、欲求であり、認識であり、価値観であり、信念であり、経験や、誰かに与えられたものでもある)をたくさん身につけている。学びを通じて行なってきたのは、自分自身を知ることだったのだ。と、同時に、学びが新たな経験や価値観、認識を生み出している。考えてみると、これまではそのことについて無自覚だった。学びを深めれば、自分や他者のことが分かるようになるかというと必ずしもそうではないだろう。「その学びがどんな認識を生み出すか」についてもっと自覚的になることができれば、今この瞬間に立ち現れる「その人全体のものがたり」をもっともっと聴くことができるのかもしれない。
この気づきは、今回このテーマについて考えてきて得られた予想外のお土産かもしれない。こうして考えてみると以前、「なぜ言葉は思ったように伝わらないのか –言葉や行動の生まれる仕組みとコミュニケーション」の中に書いた、「共感風コミュニケーション」の説明である「言葉や行動の元となった感情や背景について、自分自身の基準に照らし合わせてやりとりをする」というのはかなり高度なことのようにも思える。なぜなら「照らし合わせる」には、それを客観的に捉える必要があるが、「自分自身の基準」は基本的には「自分自身」と一体になっているため、それを客観的に捉えるには、何らかの比較対象が必要であり、自身の思考の流れと他者の思考の流れを比較した上で、その違いが何から生まれているのかを考察する必要があるためだ。「自分自身の基準に照らし合わせて」ではなく「自分自身の基準を基に」という方が、適切だろう。
これまで言葉にし整理してきたコミュニケーションやコーチング、そして物語りや物語について、これからも私の認識は更新されていくだろう。できれば今後は、認識を更新しつつ、その更新が何によって起こったのかも考えていきたい。2019.10.1 Tue 13:42 Den Haag