20230214 飛び出せ
朝食を終えてスマホを開くと「Happy Valentine’s Day」とメッセージが来ていた。昨年も一昨年もそう言われたけれど、いまだに「Happy Valentine’s Day」がピンと来ない。
これは「Happy Birth Day」の感覚で受け取ればいいのだろうか、それとも「Happy New Year」の感覚で一緒に祝えばいいのだろうか。よく分からないけれど、せっかくだから今日はチョコレートケーキでも食べようか、などと思う。
昨晩はバリ舞踊を見に行った。鉄筋のような楽器を中心とした音楽と目を見開いた踊り。不思議な音階の音楽に包まれ、異空間に迷い込んだような感覚を持った。
観光客に見せるためのパフォーマンスとしてではなく、日常の中に息づいてきた祈りや感謝、当たり前の営みとして続けられてきたのだろう。ちょうど昼間に音楽と言葉の話をしたこともあり、「この人たちは音楽の世界を生きてきたのだ」と思った。
舞台が始まる前、一つ前、一番前の列に座った老齢のカップルがやはり老齢の人に話しかけていた。どうやら、その人がリタイアメントビザでバリに滞在しているということを聞き興味を持ったようだ。話される英語の音から日本人かなあと思っていたら案の定、「リタイアメントビザは○○YEN(円)だった」という話が出てきた。
途中、何度も聞き返しながらもその人は会話を続け、舞台が終わった後は「あなたたちと話せて楽しかった。ありがとう」と挨拶をしてその場を去っていた。
海外で暮らしているというと、時折、「自分も海外で暮らしたいと思っているんだけど…」ということを言われる。そのあと、8割くらいは「英語はどのくらいしゃべれますか?」「英語はしゃべれましたか?」的なことを聞かれる。
その度に、正直思う。
英語が喋れないから何なのだ、と。
誰だって、最初は「できない」から始まる。
生まれたときは立ち上がることもできないし、母国語を理解することもできない。
学校で新しいことを学んでも、最初は上手くできやしない。
簡単な漢字でさえ、何度も練習をしたはずだ。
最初は誰しも「できない」から始まって、だんだんとできるようになる。
多くのことはそもそもやったことがない。
だからできるかできないかさえ分からない。
なのに、多くの人は「できない」「やったことない」を「やらない」理由にする。
もしかしたら、周りの人に「できないよ」と言われてきたのかもしれない。
「どうしたいの?」「どうしたらできるかな?」と聞いてくれた人がそばにいたのは、とてもラッキーなことだろう。
それにしても、何かにつけて「できない」「やったことない」から「やらない」という流れになるのは如何なるものだろう。
どこの国に行ってもその国の言葉をほとんど話せない旅行者というのはいるし(英語が通じない国だってたくさんある)、現地の人も、とにかく現地の言葉で何かを伝えようとしてくる。
飛び込んでしまえばどうにかなるし、たとえそれで上手くいかなくてもわたしたちの存在そのものの大切さは変わらない。
上手くできなくてもいいじゃないか、たどたどしくてもいいじゃないか。
やってみれば、何かそこに必ず学びはあって、結果として何かに到達してもしなくても、人生の素晴らしさに気づくはずだ。
そう言うわたしにもまだきっと何かを理由にしてやっていないことがあるのだろう。
自分にもそういうところがあるから、同じように理由をつけている人がもどかしいのかもしれない。
今いる場所から、安心領域から飛び出す。
そんなときが来ているのかもしれない。2023.2.14 Tue 9:32 Ubud
*そんなことを考えていたら、好きでnoteを読んでいる人の今日のnoteのタイトルが「やらない理由にできないを使うな」だった。ユニバース!