
最近のうすらいたち
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2021.10.31 991. 物理的な時間の流れという前提に疑問の目を向けたとき2021.10.30 990. コーチの出口への疑問、感性を消費されないために2021.10.24 989. ラクダの行き交う世界で命を生きることについて考える2021.10.24 988. 二人で行う瞑想の力、痛みをその場で受け止める、ともに生きる
2021.10.31 991. 物理的な時間の流れという前提に疑問の目を向けたとき
リビングの椅子の上に置いてあった洗濯物をたたんでいると、寝室から微かな音楽が聞こえてきた。パートナーが瞑想を始めたようだ。先に洗い物や掃除をしてからジャーナルを書こうかと思っていたが、静まった空気が心地よくて、先にジャーナルを書こうかという気になる。
昨日はセルフコンディショニングの講座を開催した。
思い返してみて今浮かんでくるのは時間の感覚だ。昨日の講座は2時間だったが、わたしたちの意識の静けさや深さのようなものは実は短い時間で切り替えることができるような感覚がある。しかも数分、場合によっては数秒といったかなり短い時間でだ。
意識の成長・発達はゆっくりなほど良いということが言われていて、わたしもそれを支持しているけれど、この、時間という感覚人間が意識の中で作り出したものだとするとどうだろう。
「ゆっくり」というのは物理的な時間の経過ではなく、何か別のことを意味しているのかもしれない。
意識の状態について言えば、短い時間で深い静けさを味わう体験をすることは決して悪いことではないのではないか。それとも「短い時間の中で」と思うことは、「忙しい日常の中でも実践がしやすいように」という前提を持った考えであって、「忙しい」というライフスタイル自体に疑問の目を向けない、いわば、既存の世界観の中での合理性を求めるような視点なのだろうか。
たとえそうだとしても、わたしたちにとって大切なものにつながれるのであればそんな時間を持つことはわたしたちにとって大切な(社会的な善いではなく、魂にとって必要な)ことなのではと思う。
そんなこととともに、先日マイコーチとの時間で対話をしたことを思い出す。
いろいろな視点が見える。あちらの背景もこちらの背景も分かる。
でもそう言っていたらキリがない。地球はもう待ったなしのところまで来ている。
そんな中では少なくとも多くの人に影響を与える立場に身を置いている人は自らの与える影響を自覚し、自らと向き合うことに取り組まない理由がないのではないか。
わたし自身、人や物事に対する基本姿勢は「見守る」「待つ」を大事にしたいと思っているが、今のような状況においてはどうしたらいいのだろうか。
「待つ」という行為には時間の経過が必要だと思っていたが、物事がプロセスなしに変化する世界を信じるとすると「待つ」という行為は何を意味することになるのだろう。
これまで信じてきた世界がまた「幻想だった」と気づく。
それは積み上げてきた(と思ってきた)ものが崩れる徒労感と新しい扉を開くときの心踊る感覚の入り混じった、ほろ苦くて少し甘いような、瞬間だ。
今日で10月が終わる。予定のない日曜日。理想に向かうプロセスではなく、ただそれが実現している今に気づくようなそんな時間を(そうなることを期待せずに)ゆらゆらと過ごしたい。2021.10.31 Sun 9:43
2021.10.30 990. コーチの出口への疑問、感性を消費されないために
昨晩やってきたアイディアのことを、夜中ずっと考えていた気がする。もちろん意識としては眠っていたけれど、頭のどこかにそれがあって、明け方、街に響く祈りの声をぼんやりと聞きながら、やはりそのことを考えていた。
それは既存の「コーチとクライアントのマッチング」の仕組みに関する違和感からやってきたものだった。
ここ数年でコーチングを学ぶことのできる機会は一気に増え、それにともなってコーチとクライアントのマッチングが行われるいわゆるプラットフォームと呼ばれる場所も増えた。
マッチングの形式は大きく二つ。
検索型か紹介型。
前者は資格や経験年数等の条件をもとに自分でコーチを選ぶ。
後者はクライアントの希望をもとに人間もしくはAIがコーチを選び紹介する。
仮にコーチングがその人の個性を開花・発揮させる一面があるとすると、すでに自分らしさを発揮している(はずの)コーチとの出会い方はこれまで通りで良いのだろうか。
何か決まった物差しで計り、条件の合う人を見つけるというプロセスで良いのだろうか。
コーチを見つけるクライアント側にとって便利な点はあるかもしれないが、コーチングを学んだコーチの出口として、それでいいのだろうか。
もちろんそれぞれのプラットフォームには想いや哲学があり、それを表面上の仕組みで推し量ることはできない。
それでもこんな考えが浮かんできたのは、昨日農業に関するとあるサービスの理念を目にしたからだろう。
それは「一次生産者に正当な利益が還元される」というものだ。そのために掲載基準やルールを設け、不当な安売りや値引き合戦が起こらないようにしているという。
今コーチングについては明らかに価格崩壊が起きている。必ずしも高い値段のコーチのコーチングが有益だとは限らないというリサーチ結果もあり、利用者にとっては「正当な価格」に近づいているように見えるかもしれない。
しかし一方で、スキルではなく感性を使っているコーチにとっては感性が消費されるレベル(の安さ)に達しているのではないだろうか。
今つながりのあるコーチたちの中には、いわゆる「コーチング」という言葉では括ることのできない取り組みをしている人も少なくない。そんな人たちがプラットフォームに入った場合、決められた指標の中でその人の「持ち味」が十分に伝わらない状態で、決まった価格に収められるということが起こっているのではないだろうか。
わたし自身、プラットフォームに所属しているときはその中で再三価格設定について話をしてきたけれど全体の方針とシステムの関係から大きな変化を起こすには至らなかった。プラットフォーム同士の競争が発生している限り、所属するコーチはそのプラットフォームの方針が「世界」になる。
たとえばアーティストや、既存の社会の価値観・枠組みに囚われない生き方をしたいと思っている人がコーチをつける場合、同様に何かから「はみ出ている」コーチをつけることがその後押しになるだろう。少なくとも社会でこうだと言われていることに「そうですね」などと疑問なく追従するような相手との対話では制限を超える感性・個性の発揮は生まれないだろう。
型から出ていくことを後押しするはずのコーチが型にはまっていて、かつ、型から出ているコーチとは出会うことが難しい。そんなことが起こっているように思う。(難しいくらいがちょうどいいのだろうか)
コーチを選ぶ側の感性も、実はもっと信頼することができるんじゃないだろうかという想いもある。
「たくさんのコーチの中からは選びづらい」という観点で条件付けをする検索方法が用いられているのだろうけれど、何かもっと他の形があるのではないだろうか。間に人をはさむとその人のフィルターがかかる。(費用もかかる)
感性と感性が出会う。そんな機会をつくることができたら、すでに素敵なコーチたちがたくさんいるこの世界が、もっと素敵な場所になっていくんじゃないだろうか。
先日、自分のコーチとのセッションで世界は突然に立ち現れることを実感した。プロセスを考えることも、そのプロセスを経ることも必要ないのだ。
人と宇宙を信じるという前提に立つとわたしが敢えて何かをする必要もないだろうという気がしてくるけれど、何か世界に現れたがっているものがあるようにも思う。以前なら「とは言え、今のわたしにはそんなことはできないか」と思っていたが、今は全く違った感覚がある。
影も含めた、美しい世界をみんなで見たい。一晩考えたテーマはきっと、そんな想いにもつながっているのだろう。2021.10.30 Sat 8:47 Morocco Essauira
2021.10.24 989. ラクダの行き交う世界で命を生きることについて考える
もう10月も終わりに近づいているということに気づき、驚いた。
オランダや日本は、秋が深まり、冬の気配が近づいてきているのだろうか。
三日前、ビーチ沿いのカフェのサンベットに横になって沈みゆく夕日を見ていた。
時折、ビーチにラクダのシルエットが現れる。ラクダが現れると一面に広がる砂の景色はビーチというより砂漠になる。
夕暮れ時の前にはカフェの奥の方の机でパソコンを開いていたが、やはり時折カフェの前をラクダが通り、その度に不思議な感覚がしてパートナーと顔を見合わせ笑い合っていた。
ニューノーマルの世界はラクダが行き交うのか。そんなことを思った。
昨日は予定がなく、馬に乗りに行こうかと思っていたが結局家でのんびりと過ごし(彼は瞑想後に湧き上がってきたアイディアをノートに書き留めるのに忙しそうだったが)その後、散歩に出かけた。
エッサウィラではこれまで滞在したどの街よりも「日常」を過ごしている。
もちろん、砂漠を歩くラクダも、道を走る馬車も、迷路のような旧市街も、小さな船が所狭しと浮かぶ漁港も、どれもこれまで体験した日常にはなかったものなのだけれど、それらを眺めるわたしの心と身体の状態はとても静かだ。
もしかすると、気温と湿気の影響もあるのだろうか、という考えが浮かんでくる。
この、少し肌寒い感じ、そして湿気を含んだ空気。
これまで数十年体験してきた時間の質感に近いのかもしれない。
(同じモロッコでも連日気温が40度を超える日が続いていたマラケシュは全くもって「日常」という感じがしなかった)
今は滞在先の他(隣)に仕事場として使う場所があるというのも大きいだろう。
午前中に仕事場に出かけ、15時くらいに帰ってきてそこから散歩や買い物に行く。
日々の中に身体が慣れたリズムのようなものがある。
今のわたしには仕事が楽しみや喜び、好きなことの一つ(かなりの上位)だけれど、パートナーのように「できることならハイキングやサイクリングをやっていたい」という感覚になるときが来るのだろうか。
仕事という名で呼ぶとそこにいろいろなイメージが付いてくるけれど今のわたしにとっては命の表現として取り組んでいることが結果として仕事と呼ばれている感覚だ。そういう意味では取り組みは違えど命を生きたいという想いは彼と共通しているのかもしれない。
今は、言葉や人にもっと丁寧に向き合っていきたいという想いがある。
ゆっくりと対話をして、ゆったりとした時間の流れの中でそれこそ関わる相手の命がさらにひらいていくことを見届けたい。
観察者はそこにいるだけで影響を与える。
自分がリソースにつながってさえいれば、そこにいるだけで十分なのだ。
ただ静かにそこにいる。
そんな存在であることがわたし自身の命の希望なのだろう。2021.10.25 Mon 8:37 2021.10.24 Sun 11:34 Morocco Essauira
2021.10.24 988. 二人で行う瞑想の力、痛みをその場で受け止める、ともに生きる
今朝は普段よりも幾分か軽やかな夢を見、ゆらゆらと漂う意識の中で毛布のあたたかさを存分に味わった後、そのままベッドで姿勢をととのえ瞑想を始めた。
正確に言えば姿勢を正して瞑想を始めようとするパートナーの横で、わたしも目を閉じた。
彼が選んだ、iPhoneから流れる瞑想用の音楽が心地よく身体に響く。
ほどなくして身体の感覚が溶け、宙が(空がという表現の方がしっくりくるだろうか)流れ込んできた。自分という存在の輪郭がなくなった今、もはや流れ込んでいるのかも流れ出ていっているのかも分からないけれど、確かにそこにあった(と思い込んでいたはずの)身体の場所に空があった。
ゆっくりと呼吸を続け、時折現れる考えやアイディアをぼんやりと眺めては、また呼吸に意識を戻す。
短い時間で意識の状態が変わったのは、音楽のおかげだろうか、それとも二人で瞑想をしているからだろうか。
彼とは時々一緒に瞑想をすることがあるが、それはいつもパワフルで幸せな時間になる。
瞑想を終えると、彼が瞑想中に浮かんできたことについて話し始めた。本のアイディアが浮かんだのだと言う。
いつものことながら、英語で話されることのほとんどが正直よく分からない。ほとんど、と言っても以前よりはだいぶ聞き取れるようになっただろうけれど、それでも哲学や物理学の話をお互いにしようとするものだから、やはり内容の全てを受け取ることは難しい。
彼も日常会話ではわたしが分かるように平易な言葉を使ってくれているが、湧き上がってきたアイディアの話だとそうはいかない。
今日は瞑想後でわたしがいつもより静かに話を聞いていたためか(ぼーっとしていただけかもしれないが)話彼は話しながらアイディアがどんどん出てくるようで、それを説明するために立ち上がって、寝室の隅に置いてあるオイルヒーターを使って話を始めた。
大の大人が裸でオイルヒーターを指差し熱弁を振るう様子を見ながら、話の中身を聞こうとする自分と「今の状況」を客観的に眺めて「なんて面白いシーンなんだろう」と思う自分がいた。
彼のアイディアと、昨日一緒に話をした「時間は存在しない」という話が結びつき、「時間が存在しない中で、わたしたちは日々こういう体験をしているのか」ということについて新しいアイディアを得て共通認識を持つことができたが、そのアイディアを他の誰かに説明できるかというと日本語でも到底それが難しい。
他の誰かに伝えられないことは残念だが、彼との間にはおそらく同じ(に近い)イメージを持つことができているだろう。
この、「分かり合えない」ところから始まって、少しばかり距離が近づく感じが、対話によってわたしたちの間に日々起こっていることであって、わたしたちが人間として他者と関わり合いながら生きていく上で大切な感覚なのだろう。
先日、野生動物にはトラウマがないという話を聞いた。ざっくり言うと、身体を通じて体験を完了させているのだと今のところ理解している。
ベッドをととのえながらその話を思い出し、そして先日、自転車に乗っていて転んだときのことを思い出した。
先日と言ってももう3週間くらい前になるだろうか。
滞在していたマラケシュの街で自転車を借り、旧市街の外にサイクリングに出かけた。
と言ってもマラケシュは旧市街の外にも新しい街が広がっている。たくさんの車が行き交う大きな道路を走るサイクリングは想像していたものよりずっと気を張らないといけないものだった。(土と植物だけの場所をのんびりと走るものだと思っていた)
そんな中、歩道に茂った植物にぶつかり自転車ごと思いっきり倒れてしまうということが起こった。