土曜の朝、何か外的なものの刺激を受けてというよりも、自然に目覚めた感覚がある。トルコに来て10日、初めての感覚だ。滞在している家は3階建ての一軒家で総じてとても気に入っているが、すぐ側を通る幹線道路の音だけは気になる。以前、消防署の近くに住んでいたときに最初は夜中に出動する消防車の音が気になっていたが気づけば気にならなくなっていたという体験がある。おそらくここにずっと住んでいたらこの音にも慣れるのだろう。

昨日はトラムとバスを乗り継いで、Urlaという地域まで足を伸ばした。普段なら観光地として賑わっているであろう小さな船の集まる漁港も、昨日は人はほとんどおらず閑散としていた。トルコでは平日の夜間と週末がロックダウンだったが(週末のロックダウンでは観光客は行動の制限はない)月曜から平日の昼間もロックダウンになり飲食店もテイクアウトしかできなくなるということでその前の最後の金曜は出歩く人が多いことを予想していたが気温が低く風が強かったためか思ったほどの人出がなかったのだろうか。(もしかすると漁港も夕方、日の沈む時間にはレストランのテラス席で食事をする客で賑わっていたのかもしれないが)

漁港の中心部にある、ガラス張りのカフェに入りトルコ式の朝ごはんを頼んだ。こうして書きながら「そのとき私は何を感じていたのだろう」ということを思い返している。

オランダ人のパートナーとは日本語で会話することはできない。彼は英語が堪能だが、私はそうでもない。結果として会話は少なめになるのだが、私の場合は日本語を話す日本人と一緒にいても基本的には言葉は少ない方なので(と思っているのは自分だけかもしれないが)あまり変わらないかもしれない。心静かに、ただ目の前にあるものを味わう。浮かんでくることを言葉にする。おそらくそれはとてもゆっくりで、沈黙の方がずっと多い。なので沈黙を心地悪く思わない人でないとなかなか一緒にいることは難しい。

一方でパートナーはもともとの気質なのか、オランダ人的気質なのか、基本的には頭に浮かんだことをそのままストレートに言葉にする。自分と関わりのないことや人についてもああだこうだと言う彼の言葉を聞いて、「それは愚痴なのか、意見なのか、それであなたはどうしたいのか」と半ば詰問に近い質問をしたくなることもあるが、彼にとってはただ「浮かんでくることを言葉にしているだけ」なのだ。私に対する気遣いから、食事の際や何かを選ぶ際にあれやこれやと言ってくれるのだが、そしてそれは「ただ浮かんできていることを言葉にしているだけ」なのだが、数年間、現実世界の中で自分の内なる感覚を頼りに日々のことをなしてきた私としてはそれが時に煩わしく、「私のことはいいから、自分のことを自分で決めてくれ」と思ってしまう。一般に「仕事」と呼ばれる時間の他者との対話やともに過ごす時間については自分と他者との境界がゆらゆらと、曖昧になる感覚があるが、実生活でいかに「ひとり」の世界を過ごしてきたかということを痛感する。彼と共に時間を過ごすようになってから書いているリフレクションジャーナルには必ずそのことが登場するのではないかと思うくらいだ。

分断と心の狭さを感じ反省も多い毎日の中でも楽しい時間をたくさん過ごすことができているのは彼が私の見ている世界を許容してくれているからだろう。

一昨日はUrlaの手前にある山でハイキングをした。(ハイキングと言っても運動不足の私にとってはなかなか長く大変な道のりだった)

途中ですれ違った年配の男性が静かに微笑んだ様子を見て彼が「He knows what the life is.」と言った。(実際にはもう少し違ったかもしれないが、ニュアンスとしてはそんな感じだ)

今日という日の中で出会ったものをただ味わい、喜びと祝福を向ける。そんな風に生きられるようになるにはまだまだ長い時間がかかるだろうか。成長や学習意欲が高まることと、「今ここ」をありのままで生きること。その間で数年ごとに揺れている自分にも気づいた。今の私の中ではそれらが相反関係になってしまうのだが、それもいずれ溶け合っていくのだろう。

日々の小さな気づきがこぼれていく感覚もある。「気づきがなかった」というのは、実際には「気づきを言葉にする機会がなかった」というだけなのだ。言葉になる手前のところでもキャッチしているものがたくさんあるし、言葉にして初めて気づくこともたくさんある。言葉にすることと生きている実感を持つことは密接に関わっているのだと改めて実感している。2021.4.10 Sat 8:27  Izmir