462. イズミルの朝、内と外について

久しぶりに礼拝の時間を告げるアザーンと呼ばれる歌声で目が覚めた。おそらくその前にすでに眠りが浅くなっていたのだろう。7時になればセットしたアラームが鳴るだろうから、と、時刻を確認せずに再びベッドにもぐる。男性にしては珍しく低体温でいつも手が冷たいパートナーの手も、朝のベッドの中ではあたたかい。

クリスタルボウルのやさしい音のアラームを合図にベッドから出てシャワーを浴びる。身支度をしてキッチンに向かい、水をあたためている間にキッチンの脇にヨガマットを広げ、太陽礼拝のポーズを繰り返す。最初の一口はプレーンな湯。そのあとにグラスに大麦若葉のパウダーを加える。

気づけば1年以上続けてきた朝の習慣だ。

これまでと違うのは、家が3階建ての一軒家であるということ。そしてここがトルコであるということ。

あっという間に一ヶ月の半分が過ぎようとしている。これまでの二週間のことを振り返ろうかとも思うけれど、あまり意欲が湧かない。これまで生きてきた時間と経験を通して今ここにいると思うと、今ここわたしが感じることを言葉にしていくことが、結局これまで過ごした時間を記すことにもなるのではないかという気がしている。

今日は月曜日だが、今日からロックダウンが厳しくなりカフェやレストランはテイクアウトの営業しかできなくなると聞いた。(これまでは平日の夜と週末のみのロックダウンだった)そのためか、近くの幹線道路を通る車の量はいつもよりも少ないように思う。それでも往来の音は止まないので、そこそこに車は通っているのだろう。さらに明日からはラマダンに入る。街や人がどのような状態になるのか、今は想像もできない。

そして私は二週間の休暇を終え、通常の仕事モードに戻る。おなかの調子が時折悪くなることを除けば、身体は比較的クリアな状態だ。あたたかくなって意識が外に向かっていることを感じる。自然の流れにのりながら、ほどよく内的な感覚を感じられる状態でいたい。

そう言えば、と思い出す。この二週間、『関係からはじまる −社会構成主義がひらく人間観』という書籍を読んでいたが、社会構成主義の考え方に基づくと、そもそも「内側」というのが存在するのだろうかという疑問が湧いてくる。「内側というものの存在を認めることが果たして人間にとって幸せなのだろうか」という疑問と言ったほうがいいかもしれない。

屋号である「あわい」のもととなった、能楽師の安田登さんの『あわいの力 「心の時代」の次を生きる』でも、人間が「心」というものの存在を認めたことによって苦しみや葛藤が生まれたという話が書かれていた。

心を認めるとき、そこに世界との分断が生まれる。というのは「心」をある特定の認識を持って眺めたときに起こることだろう。人間の成長が境界線の更新の繰り返しだとすると、心を探求した先には心という存在が世界に溶けていくということになるのかもしれない。

そんなことを考え、社会構成主義を支持する感覚を持ちながらも一方で◯◯主義というものそのものが危険性や限界をはらんでいることも想像する。特にアカデミックな分野になると、他の分野との差別化が必要になるためときに大胆な、もしくはある種明確な主張が必要になるだろう。大学もしくは研究期間等の中で研究が行われ、研究費やポジションの確保が必要になるのであれあなおさらだ。教育や研究がビジネスのように短期もしくは中期の投資対象としてみられたとき、教育や研究の構造そのものが歪む。研究者は自分の身を置く世界の構造に気づくことが必要だが、気づいたところで変えられないと感じる強固な構造がすでにあるのも事実だろう。

そんな中で私はどんなテーマを、どんな立場で探求および実践していくのか。

それはこの二週間の浮遊するような時間の中で自然と浮かび上がってきている。これまで以上に、手放すものも出てくるだろう。そのときにいかに世界と自分を信頼するか。降りてくるメッセージを伝える役割として自分を世界に明け渡すことができるか。

窓の外の日差しが強くなってきた。エーゲ海の青は今日も深い。2021.04.12 Mon 8:24 Izmir