459. 境界線に関する認識

昨日の夜に降り出した雨は夜中の間にも微かに降り続いていたのだろう。湿り気を帯びた中庭の木々がいつもよりもさらに静かに佇んでいる。枝葉が風にそよいでいないのだということが、同時に降りてくる。外に見る景色は常に心象風景なのだということを思う。

昨日過ごした時間から、自分自身の「時間」に関する認識について考えている。私の中で強くあるのは「時間は有限である」という感覚、そして「時間は命そのものものである」という感覚、それは「命は有限である」という感覚でもある。

有限であるからこそ、「他者と時間をともにする」ということに対して「尊いことである」という強い感覚を持っている。そしてその感覚と同時に「他者にも、自分とともにする時間を大切なものとして扱ってほしい」という欲求が生まれている。そうすると、時間を大切に扱われていない感覚が、そのまま直接自分を大切に扱われていない感覚になる。ここに苦しみが生まれる。

目的や想いは人の力になるけれど、同時に限界を生むという話がちょうど最近読んでいる書籍の中に出てきたように思う。

自分が「仕事」という括りの中で過ごしている時間についてはそもそも「ともにする相手のための時間である」という認識が大きい。「相手が時間をどう扱うかは究極的には相手が自分の人生をどう扱うかであって、私の命に対する価値づけではない」というように、かなり強い切り離しのようなものが起こっている。

しかしこと、仕事を離れると、その反動かそこに流れる時間は「自分の時間である」という認識が強くなる。そしてその時間がどう扱われるかが自分の命や存在に対する尊重と非常に近しい関係になる。

「自己」と「他者」の間には明確に境界線が引かれ、本来であれば両者の「あわい(あいだ)」の領域にあるはずの時間が「自分のもの」だと認識され、その境界線を立ち入られることに強い嫌悪感を感じる。

そんなことが起こる。これはひとりでのんびりと暮らしていたときには感じることのなかった感覚だ。私にとってオンラインはパブリックであり、その中に身を置くときには他者との境界線はゆるやかで曖昧で動的なものとなる。一方、リアルは(この呼び方ももはや実情を示しているものではないのだが)パーソナルであり、その中に身を置くときには、他者との境界線が強く引かれる。

今日はもう、繰り返しそのことしか書いてきていないかもしれない。この先自分に変化の可能性があるとすると「命」や「生きる」ということに関する感覚(有限性)の変化ではないかと想像している。

命や生きるということが、そもそも幻想である、もしくは大きな流れの中で無限性のようなものを持っているという感覚になったとき、時間に対する感覚および他者とともにする時間に関する感覚もまた変化していくだろうか。もしくは有限・無限という二項対立を超えた感覚が生まれるのだろうか。あるいは変化というものさえ手放していくのだろうか。

これから数年、数十年のあいだに何が起こっていくのか。そんなことに微かに思いを馳せながら、今日という一日を生きる。2021.03.09 Tue 8:43 Den Haag