中庭の梨の木の枝先に小さな「つぶつぶ」がくっついている。あれを「つぼみ」と呼ぶのだろうけれど、でも今は、私の知っている「つぼみ」よりももっと手前の状態のように感じる。おそらく私はある特定のエネルギーの状態まで達したものについて「つぼみ」と呼んできたのだろう。今見える「つぶつぶ」は、見かけというよりエネルギーの状態と方向が、まだ「つぼみ」とは違うのだ。

かもめたちが声を上げ、中庭の空気を揺らす。

昨日、一昨日とナラティブをテーマとした勉強会を開催しているが、改めてこのテーマが自分にとってとても大切にしたいテーマなのだということを感じる。ナラティブは一つのものごとの見方であり、人間の捉え方であるが、対話という営みの中で何が行われているかについて小さい頃からの「基礎科目」の一つとして学び実践していたら、他者との関わり、そして人生の質は大きく変わるのではないかとさえ思う。

同時に今感じるのが、対話が切り売りされているという現状だ。対話は生きる時間であって、私たちの人生そのものだ。自分の人生や今の暮らしの中で大切なものが時間を切り売りするために犠牲になってはいないだろうか。

「世界」や「他者」を見て気になることというのは結局は自分の心の反映なのだろう。あたらしい暮らしと、仕事、暮らしとは別の場所にいる人たちとの関わりにどう取り組んでいくのはこの数ヶ月のテーマであり、まだ確信を持った着地には至っていない。

「社会」や「他者」に何らかの良い影響を与えたいというのは、これまで生きてきた社会や慣習の中で埋め込まれた「善」なのか、自分自身の魂のようなものが希求する「美」なのか。そんなことを考えずに毎日を過ごし、今日という日をともにした人との関わりで「幸せ」だと思えたらどんなに毎日が穏やかだろうと思う。

今すでに、時間をともにする人たちとの関わりは私にとってとても大切で幸せなものであって、基本的に毎日は穏やかさに包まれているけれど、「一番身近な他者」との間で何ができるだろうかとも考え続けている。

「明け渡す」というのは今の状態に対する答えなのだと何度も言い聞かせてはいるけれど、一体何を明け渡せばいいのだろう。もしかすると、心が穏やかでいることさえ、明け渡す必要があるのだろうか。

静けさや穏やかさは確かに今の自分自身にとって大切な価値観であり、手にしているものになっている。一番大切とも言えるそれらを手放したときに何が起こるかと思うと、恐れさえ湧いてくる。ここに大きな執着があるということだろうか。

明け渡して、いろいろなものが流れてもなお残るもの。それが次の「大切なもの」になるのだろうか。そしてそれがまた執着の対象になるのだろうか。

関係性から学ぶということを今痛いほどに実感している。2021.3.7 Sun 8:13 Den Haag