457. 生きるということ

向かいの家の茶トラ白猫が中庭の真ん中のガーデンハウスの屋根の上で空を見上げている。私も空を見上げ、今日も生きることを味わうのだという喜びに包まれている。

霧のかかった中庭。上の階から聞こえるシャワーの音。表の通りを通るトラムの音。静けさの中に始まりの音が混じる心地よさを感じながら「これが今の私の心の音なのか」と思う。

昨日はセッションを終えた後、16時すぎに散歩に出かけた。日没時刻は気づけば遅くなっていて、数週間前だったらもう暗くなりかけていた夕方の時間でもまだ、沈み始める前の太陽が見えた。

いつもとは違う、大使館のあるエリアに近づく方面に歩き、公園のベンチに座り、公園にいる人たちを眺めながら話をする。一定の感覚を保って、7組ほどの、男女、もしくは男性と男性、女性と女性の組み合わせがベンチや花壇の縁に腰掛けている。

もっと大きい公園もあるからまた歩こうと、さらに歩く道すがら、悲しい光景に出会った。犬が事故に会うのを目撃してしまったのだ。一瞬の出来事が、スローモーションのように思えた。

詳しくをあえて言葉にはしないが、「悲しい想いをしたくないから、もう犬は飼いたくない」(以前は飼いたいと言っていた)とつぶやくと、「犬を飼わなければ、あなたの人生の中に犬は現れないし、犬が事故に会うこともない」と彼が言った。その言葉に含まれている様々なメッセージを感じた。

その夜、食事をしながら「家を出なければ悲しいことには出会わずに済むかもしれないけれど、自分の心が何かを感じることも少なくなってしまうのかもしれない」ということが浮かんだ。去年一年、外出の機会は少なく、何より人と会うことがほぼなかった。それでも暮らしを続けることができたし、心の中はいたって平和だった。

外に出て、人と出会い、関係性を深めると、いろいろなことが巻き起こった。この2月に起こったことだけでも、去年1年間で起こったことを超えるだろう。その中にはつらいこと、悲しいこと、とまどうこともたくさんあったけれど、嬉しいこともたくさんあって、それは私が外に出なければ感じることはなかったのだろうと思う。私の中の「内」と「外」の概念が変わればそれもまた変わるかもしれないけれど、少なくとも今の私の世界の認識においては、「外」はいろいろなことが起こる場所だ。

感じることがどんな質感のことであっても、「生きている」ということなのだと今は思う。オランダを出たら、またいろいろなことが起こるだろう。それも全部、「生」として受け止めることができるだろうか。これからやってくる未知の日々の気配を感じながら、今日も、今日という日を味わっていく。2021.03.03 Wed 7:52 Den Haag