454. エピローグとプロローグの終わりに

 

向かいの家の茶トラ白猫がガーデンハウスの向こう側から顔を出している。向かいの家にやってきて数ヶ月、あっという間に太ってきたと思っていたが、その顔にはまだ子猫の面影が残っている。

1階のヤンさん宅の庭には三毛に近い毛色の、赤い首輪をした猫がいる。先日初めて中庭で見かけた猫だ。

茶トラ白猫と三毛猫はどうやら目が合ったようで、見つめ合いながらピターっと止まっている。

この中庭の景色を見るのもあとちょうど1ヶ月かと思うと感慨深い。

ゆっくりと季節の移り変わり猫たちが遊ぶこの場所の景色を、私はずっと眺めることができただろう。それも一つの幸せな人生の形だったと思うけれど、結局のところ私は「もっと外側」を見てみたくなる性分なのだ。

昨晩、夕食を終えて、リビングの脇に並べた一人がけのソファに腰掛け、かけていた音楽を、日本語の歌に変えた。耳から入る言葉が「意味」や「世界」として頭や身体の中で瞬時に立体的に膨らむ特性があり、それは自分の中のスペースを占領してしまう感覚があるため普段日本語の歌を流すことは少ないが、昨日は少し前にヒットしたアニメ映画の挿入歌が目に留まり、再生ボタンを押した。

3mを超えるところにある天井に掘られたレリーフを眺めながら、言葉から生まれてくる感情や感覚をそのままに浮遊させていたら、涙が溢れてきた。目をつぶっても、自分の中の海がやってきている感覚が分かる。

この家にやってきて2年半、いろんなことがあった。

大好きな人と一緒に過ごす少しの時間は、とても幸せで、悲しい時間だった。指折り数えることはもうしないけれど、随分と長い間一緒にいて、随分と長い間一緒にいることができなかった。ずっと夢見ていた幸せな物語を一緒につくることはできなかったけれど、私の中の「愛」の質感を変えたのは、間違えなく彼との時間だ。

でもきっと、オランダに住むと決めたとき、この部屋に住むと決めたときに、「終わり」は始まっていたのだろう。終わりを始めたかったのかもしれない。

今、この部屋でひとりで過ごしてきた2年半の時間が、そして、新しいパートナーと「知り合う」時間が、終わろうといている。これまでの物語の「終わり」の 終わり(これはもう、エピローグに近いだろう)と、そして新しい物語の「始まり」の終わり(こちらはプロローグということになる)。

この先の世界はもう、描いてきた夢を超えていて、どんなものになるか想像もつかない。

この2ヶ月間、パートナーシップの「始まり」の時間を過ごしてきて知ったのは、パートナーシップにも成熟度合いがあるということ。現在のパートナーは一回り歳が離れていて、忙しく働くということから経済的にも精神的にも解放されている。「悠悠自適」という言葉が適切かは分からないけれど、とにかく毎日を好きに過ごすことができる。私も彼ほどではないが、自分一人であれば心の望むことに取り組み、たくさんの喜びを感じて日々を過ごすことができる。私たちの間には、一緒にいることの必要性も義務もない。誰かに稼いでもらう必要もないし、誰かにごはんを作ってもらう必要もない。彼は「We are team」とよく言うけれど、何か機能を補完し合っていく必要性があるチームではないのだ。もちろん補完し合っているところはたくさんあるけれど究極的にそれが必要かというと、お互いにそうではないだろう。(少なくとも、料理をはじめたとした暮らしのことも何でもごきげんにできる彼にとってはそうではないはずだ)

一人で、機能としての暮らしや人生は成り立たせることができる中で一緒にいるということはどういうことなのだろう。

日々彼との間に生まれているのは間主観的な体験だ。お互いの人生やエネルギー、身体がつながりあってその中をぐるぐると流れていくものがある。それは自然や宇宙との間に起こっているものとも共通しているけれど、生きた生身の人間との間に起こることはもっと生々しくて不恰好だ。

ここからきっとまたパートナーシップの形とそこで生まれるものも変わってくるかもしれないけれど、これから始まる新しいステージはさらにお互いの「命」のようなものを鮮明に感じることになるだろう。

エピローグとプロローグが重なり合う。そんな3月を過ごしていくことになりそうだ。
2021.3.1 Mon 8:58 Den Haag