947. 始まりと終わりと愛について

 

久しぶりに一人の夜を過ごしている。

2021年のはじめ、ロッテルダムで過ごした後、ハーグの家に戻って以来、ずっと二人だった。そんな風に誰かとの時間を過ごしたのはちょうど1年ぶりだ。

お互いに人生で様々な経験をして、自分にとって大切なことを分かっている。駆け引きではなく、日々の暮らしをともに過ごすことを通して、そこに生まれるもの感じるものの質感を味わってみる。そんな風に始めていくことに合意ができる相手と出会えたことはとても幸せなことだったと思う。

人生のステージの違う私を見守って、私の仕事を何より優先してくれているにも関わらず、「何かを返さないといけない」という気持ちが自分の中に生まれる。セッションの合間にお茶を淹れて、お菓子やサラダを作ってもらったのだから、いつも夕飯を作ってもらっているのだから、せめて晴れた日には一緒にビーチまで散歩に出かけないと。と、そんな気持ちと状況は一見とても幸せなものに思えるけれど、それはつまり、私の中に何かをすることへの見返りを求める構造があるということだ。

「ありがとう」と言うと、「ありがとうと言わないで」と言われる。それはつまり、「あなたのためにそうしているのではなく、自分がそうしたいからしている」ということだ。自分の幸せの責任を自分で引き受けるということ。それは幸せに生きるためにとても健全で大切なものごとの向き合い方だと感じる。しかし、そんなことが分かっていながら、分かっていると思ってきたにも関わらず、私自身がまだそうありきれていなかったのだ。

自分と他者の間に明確な線引きをすることと「わたしたち」という感覚および単位を持つことは相反しないのだということも学んでいる。このテーマについては改めて深めていきたいが、個という単位がまず確立されているからこそ、集合になることができ、かつ集合になることで自分の大切にしたい価値観がゆらぐことはないという意識が持てているのだろうか。人生の経験もあるだろうけれど、彼が幼い頃に受けていたというモンテッソーリ教育の影響もあるのかもしれない。とにかく、色々な経験を経てもなお(経たからこそなのか)こんなに屈託なく生きられるのだろうか、自分に正直に感じていることを言葉にすることができるのだろうかと毎日驚くことばかりだ。

この家での暮らしを始めるときに決めた1ヶ月の「試み」の期間が終わる頃にどうなっているかは分からないが、ここからの2週間は、週に2日ほどは仕事や探究に没頭する日をつくり、毎日の中に日記を書く時間を改めてつくることができたら私はきっと心地よく、喜び溢れる毎日を過ごしていくことができるだろう。そして今日から明後日にかけてのように、たまに一人で過ごす時間がお互いにあればきっと上手くいくのではないかという気がしている。もしこの先同じ形でともにいることを続けないとしても、本当に多くのことを学ばせてもらっているし、学び合っているはずだ。

この日記は当分の間、そんな毎日の記録になるかもしれない。これまでの一人の時間とはまた違った、彩鮮やかなものになるだろう。

一方で、まだ終わっていない時間もある。終わりを決めたのは私で、それを告げたのは私で、でも相手にとってはまだ終わってはないのだ。これまで過ごしてきた時間と関係性がそこにあったことは事実だけれど、そこに向き合ってきたことも事実だけれど、だけど、最初に掛け違っていたボタンは結局いつまでもそのままだった。それを「始まってさえいなかった」と言ってしまうことは簡単だけれど、そうするにはあまりに長くて色々なものの詰まってきた時間を過ごしてきたとも思う。

日記を書く習慣があり、おそらくお互いの日記を読む習慣があることで、葛藤し続ける相手の様子を、相手の新しい暮らしを知ることができてしまうというのは切ないことなのかもしれない。自分だけ進んでいく日常を言葉にし、人が見ることのできる場所に置くというのはとても残酷なことなのかもしれない。

今分かるのは、人は結局のところ、自分の幻想の世界を生きているということだ。短い言葉に込めた想いは、結局のところ込めた人にしか分からない。それがときにどんなに冷たいものとして受け取られようとも、相手の心をえぐろうとも、「わたし」を離れたものはどうすることもできないのだ。

それでも、私たちは苦しさを乗り越えることができると信じているから、私は言葉にし続ける。

共に何かをつくりたい。そう思った気持ちに嘘はないし、今でもその気持ちは変わっていない。日々をともにするパートナーとして生きることはできなかったけれど、私たちの心に漂う言葉と言葉にならないものたちをそっと置く場所をつくっていく、そんな仲間になることはきっとできるだろう。そんな願いは自分勝手なものなのだろうか。愛にも色々な種類があって、全ての人との関係性の根っこは愛であって、どんな接点を持つかどうかの違いなのではないかという気がしている。

できないことを数えればキリがない。世界はもうもとには戻らなくて、国をまたいで移動することは当分できないかもしれない。恐れの奥にある想いに気づいて、それを抱きしめて、今日できる行為の中にその想いを込めることが、愛するということなんじゃないかと、今はそんな風に思っている。2021.1.13 Wed 23:12 Den Haag