933. 美しい景色と夢と

書斎の小さな机の前に座ると、鳥の声が聞こえてきた。先ほどまでいたリビングでは聞こえなかった音だ。中庭の木々の枝が揺れるシルエットの向こう側に、向かいの家の食卓が浮かび上がる。少年が一人、何かを食べている。

と、その手前、ガーデンハウスの屋根の上で何かが動く気配がした。暗闇に目をこらすと薄ぼんやりとした白っぽいシルエットが見える。向かいの家の、茶トラ白猫のリッタローだろう。1ヶ月ほど前にはこわごわ外に出てきていたのが、もうすっかり堂々と庭で遊び回っている。

向かいの家のリビングの灯りが切り替えられ、食卓の上に灯されたオレンジがかった丸い灯りだけになった。その、3軒ほど隣の家の庭は、オレンジ色の電飾で飾られている。イルミネーションと呼ぶには控えめで、静かで優しい灯りだ。

この窓から見える景色の美しさをどうやって届けることができるだろう。そう思うけれど、到底言葉では表現できないのだと思い知らされる。もしかすると、私の心を通してしかこの景色は見えないのかもしれない。これまで過ごしてきた色々な時間があったからこそ、この、一見何でも内容に見える景色がこの上なく美しく見える。

今日は長いこと夢を見ていた。もう夢の記憶はどこかへ行ってしまったけれど、そこに誰かと過ごした時間があったという感覚は残っている。

夢があっという間に消えてしまうことを考えると、夢は感覚なのだろうか。今この瞬間に立ち現れる感覚。視覚や聴覚ではない感覚。もし夢から目覚めた世界を体験しているように夢を体験しているのであればもっと記憶に残ってもいいように思う。もしくは意識の状態によって記憶を保持できる長さは変わるのだろうか。明晰夢と呼ばれる夢を見ていることに気づいている状態の夢であればもっと長く夢の記憶は続くのだろうか。たとえそうだとしても、それが幸せなことかというとそうとは限らないだろう。今この瞬間の体験を積み重ねる。記憶はそれを実感として多少後押しするものくらいがちょうどいいのではと思う。

私にとって、今この瞬間を一番強く感じられるのが対話だ。生身の人間同士が踊るダンスとしての対話。記憶や恐れを手放して人と向き合うことができたとき、砂漠の端から太陽が昇るのを目にしたときの感動のようなものが(そんなものを目にしたことはないのだが)命を包む。

自分一人の中に生まれる感覚や感動も美しいものだけれど、他者との間に生まれる化学反応のような、予想外でコントロールすることのできない波は心地良い。

「わたし」と「あなた」の境界線がゆらぐ。世界との境界線がゆらぐ。
一人の人を通して見ているのは果てしない宇宙だ。

そしてその宇宙は、絶対的な孤独の場所に生きているからこそ見ることができる。

春に日本に行くことができたら、人とゆったり語らう時間を持ちたい。
たくさんでなく、ほんの少しの人でいい。ひとりひとりと、ゆらゆらと。
もしかしたら後にも先にもそのときだけという出会いや時間もあるかもしれない。
だからこそ美しい。

外はすっかり明るくなった。今日の世界とともに、どんな時間を過ごすことになるだろう。2020.12.1 Tue 8:16 Den Haag