928. 「自分の人生に自分で取り組む」ということを支援するということ

一週間前の日記をサイトにアップし、外の空気を吸うためにバルコニーに出ると、向かいの家の猫が中庭のガーデンハウスの屋根の上に丸まっていた。数週間前、くたくたとした頼りなさげな足取りで屋根の上を歩いていた頃の面影がすっかり消えているくらい、堂々とした佇まいになっている。

子猫というのはこんなにもあっという間に大きくなるものなのだろうか。ちょうど首の周りの白い柄のところの肉がぷくっと盛り上がって、マフラーを巻いているような雰囲気になっている。まん丸に見開いた目には、相変わらず好奇心がいっぱい詰まっているが、多少世界を知った「すれた」影さえ漂い始めている。

そう見えるのは、私が猫が遊びに来ることを心待ちにしているからだろう。「にゃあにゃあ」と呼びかる声を「またあなたね」と一瞥されるようになった今、どうしたらいいのだろうか。日本ではよく猫と話をしていた(と思っていた)が、オランダの猫は言葉が違うのだろうか。

先週末から比較的ゆったりした時間が流れていて、その中で今後の講座の準備や読書をしているが、そんな中、今後どんな方向性で世界と関わっていこうかということは何度も頭に浮かび上がってきている。

自分自身が納得がいく質の高さや時間の余裕、実践と学び・探究のバランスのもとに11で関わることのできる上限に達しつつある中、一方で、まだ世界に届けられるものがあるという感覚があり、同時に、もっともっと学びや探究を深めたいという想いもある。

学びと実践のテーマになるようなことを提供しながらできるだけフラットな関係でいること。関わる人がそれぞれのフィールドやステージで力を発揮し、それによってさらに周囲の人に刺激や影響が広がっていくこと。そんな状況や関係性をつくることは簡単なようで難しい。

基本的には世界に対してオープンでいたいけれど、そうすると本来できるはずの努力や思考なしに、寄り掛かってこようとする人がやってくることがある。おそらく私はそんな人にとても敏感で、そしてそんな気配を感じたときはビックリするくらい冷たく突き放す。それは「あなた自身でできることがもっとあるはず」ということに気づいてもらうための私なりの愛情なのだけれど、きっと私にやさしさやおだやかさだけを見ている人にとっては本当に、とても冷たいと感じるだろう。


例として挙げるのはおこがましいが、河合隼雄さんもさっぱりとした人だったと聞く。人の話を聞いたり対話をすることを生業としていると、いつでも人の話をやさしく聞くのだと思われがちだが、そんなことをしていると身体が持たないし時間も足りなくなってしまうのだ。確かに、大切な人の話はいくら聞いても苦にならないし、むしろ聞いていたいと思うくらいだけど、それは関係性の前提があってこそのことであり、「私のことを救ってほしい」という人の話を聞き続けられるわけではないのだ。人生や選択の責任の線引きを明確に行う在り方は、実際のところ結構な厳しさを伴っている。「自分の人生に自分で取り組む」ということを支援するというのは、そういうことなのだと思う。

言葉などを通じて間接的に届けるのと、関わりを通じて生まれるものは全く性質が違うものだという認識は、現在の私の認識の限界なのだろうか。物理的距離や物理的肉体は意識のみが存在する状態になると超えることができるという感覚と実感があるが、そうなるとさらに、「関わり」そのものも、現在の認識を超えて、その影響力を発揮することができるのだろうか。

そう考えていると、最終的に行き着くのはやはり「祈り」なのかもしれない。「祈り」という行為さえ存在しない、存在としての「祈り」。そうあれるようになったときはきっと、肉体的な死への恐れや、自分の一部だと思っているものへの執着もなくなり、世界に溶けているのだろう。

そんな状態はきっと心穏やかな、光に包まれたような状態だろうけれど、そうなる前にもっと、様々な、時に激しい感情や、肉体があるからこその感覚を感じたい。

はてどうしたものか。世界との関わり方、人との関わり方というテーマは、結局のところ、微かに湧き上がってきている魂の願いにどう耳を傾けるのかというテーマなのだろう。2020.11.24 Tue 13:46 Den Haag