926. この一年間の関わりを思い返して

鳥の声が聞こえてくる。ゆっくりと雲が西の方角に動いていく。

昨晩は20時すぎには寝ようという気持ちがあったが、その気持ちとは裏腹になかなか寝付くことができなかった。

3年前、ドイツに住んでいた頃のことが思い出されていた。中でも、悲しいことばかりが記憶に上ってくるので、「悲しいことの何倍も楽しいことがあったのに、なぜ悲しいことばかりが思い出されるのだろう」と思った。思い出せば思い出すだけ、体験される。私たちは一度の体験を、こうやって何十回も再生するのだ。一度を一度として終えることができたらどんなに楽だろうか。それともそれはそれで味気ない人生になるのだろうか。

こうして書きながら、今年は本当に、人との思い出が積み重ねられていないのだということが湧いてきた。もちろん日々対話を重ね、ほんの一瞬だが、人生の一部をともにしているのだが、それはあくまで、オンラインという擬似空間の中での出来事だ。まっさらで聴く在り方を保つためにも、共に体験をしながらも、相手の人生と自分の人生は明確に線引きをしている。明確に線引きをしているからこそ、まっさらで聴くことができるとも言える。上司や部下、そしてパートナーや家族との対話というのは実際のところとても難しい。利害関係が発生することもあるし、利益相反が起こることもある。あちらを立てればこちらが立たず。それを乗り越えるのが対話なのだが、現実世界で直接的に関わらない相手との対話に比べるとその難易度は格段に上がる。それは人としてとても自然なことだと思う。

振り返れば、私が今年直接顔を合わせて話をした日本人は、ハーグに住む知人家族とフローニンゲンに住む友人。あとはハーグのカレー屋で会ったデルフト工科大学に留学してきている人と、カレー屋のスタッフさんくらいだろうか。

のんびりとお茶を飲みながら話をするというのは、簡単なようで難しい。お互いに十分な時間と心の余裕のようなものがないといけないし、お互いが程よく、自分自身の関心を持ちながら様々な方向を見ることのできる「あそび」のようなものも必要だ。そして何よりもお互いに沈黙を許容できること。最後の一つは、初めは難しくとも、だんだんと起こっていく。その変化が心地よくもある。

そんなことを考えている私から15mほどの距離のところ、中庭のガーデンハウスの上で、向かいの家の茶トラ白猫と別の家の黒猫が1mほどの距離を開けて見つめ合っている。あの猫たちの間には今、どんな時間が流れているのだろうか。

今心の中にはまだ昨晩浮かび上がってきた感覚の、もやもやとした名残があるけれど、これもきっと静かに沈んでいくだろう。

と、猫たちを眺めていたら、その先にあるはす向かいの白髪の老女が大きく手を振った。これが私に向けられたものでなかったら恥ずかしいと思いながら、手を振り返すと老女は微笑んだ。彼女も猫たちの様子を眺めていたのだろうか。

直接言葉を交わさずとも、日々人との関わりは生まれているのだ。
心の中に小さな明かりがぽっと灯った。2020.11.22 Sun 8:57 Den Haag