920. 冬の訪れを感じ、成長・上昇志向の現代社会に思う

 

夜中の間降り続いていたであろう雨は止み、少しずつ空が明るくなってきた。雨が降るということはあたたかいということだ。日本の東北地方の山間部ではもう雪が降っていると聞いた。ビックリするくらい平らなこの国では緯度の差以外ではあまり気候に違いはないのだろうか。気づけば、庭の葡萄の蔓は太い枝を残してスッカスカになっている。10月の終わり頃まで実っていた葡萄の実はもちろんのこと、葉までがほぼなくなっている。庭の中央に生えている梨の木も枝だけになった。見た目は寂しいが「意外と好きな季節かもしれない」と思う。

エネルギーが内に向かい、静かに死と再生が起こっていく。

この時期があるからこそ、また春に蕾が膨らみ、花が咲き、そして夏に青々とした葉が生い茂るのだ。特に日本に生まれ育った人の身体の中には季節の巡りが自然なリズムとして刻まれているのではないかと思う。

春・夏と秋・冬は明らかにエネルギーの向かう方向が違う。冬は一見、寂しい感じがするが、自分の中に冬を持てているのかは持っている力や可能性を花開かせていくのに重要だろう。

それが現代人はいつも、春や夏であることが求められていないだろうか。

前へ前へ、上へ上へ。そんな風に精神が希求する時期もあるが、そんな時期でなくともいつも成長神話に駆り立てられている。GDPなどという、戦後の高度経済成長期に用いられたのと同じ基準を用いて、それが上がり続けることを目指す国に、人の心や精神が豊かな未来があるのだろうか。

と、ずいぶんと成長に対する批判的な目を持っている私には今、何が起こっているのだろうか。内に向かい、一見、何も起こっていないかのように見える活動をして日々過ごしていく自分を「それでいいのだ」と後押ししたいのかもしれない。

内に向かおうとするとき、自分の中の「頑固さ」が顔を出す。外から呼んでくれている声に対し頑なに耳を閉ざそうとすることが起こる。

比較的マイペースとは言え、それなりに「誰かのために」と思うこともある私にとって「今はこもりたい時期なのだ」と明確に意思表示ができるようになったことはある意味一つの変化であり成長であり、それでも日々の暮らしを続けていけるということも、成長があってこそなのだろうと思う。

自分自身の成長の恩恵を受けてはいるけれど、なんだかんだ、見守ってくれる人がいるということが何より人生を後押ししてくれてきた。だから直接でなくとも世界に対して自分が受け取ったものを、何かの形にしてまた渡して行きたいという気持ちがあるし、そのためにも「冬」が必要なのだ。


今の家に住んでいなければ、こんなにも冬が好きにはならなかっただろうか。

初めてドイツのミュンヘンを訪れる前、欧州に来たことのなかった私には「寒い地域に住む」なんて想像もできなかった。

人生の大きな流れの中で考えても、今は、ゆっくりと秋から冬に向かっているくらいなのだろうか。突然極寒の地に投げ出されたら生きていくのも大変だろうけれど、春、夏、秋とゆったり季節が変わっていく中で迎える冬は悪くない。

世界がもう少し落ち着くまで、もう二、三年の間、こんな感じで過ごしていくことになりそうだ。とは言え、人生何があるか分からない。今日という日を慈しむこと、静かに言葉に出会うこと。どんな世界がやってきたとしても、自分の心にとって大切だと思うことを為していられたらと思う。2020.11.17 Tue 9:29 Den Haag