907. ひとりぼっちのつぶやき
あたたかい日差しが差し込み、隣にある保育所の庭で遊ぶ子どもたちの声が聞こえてくる。
6年前の秋、週末の散歩でふらりと入った神社の境内で光の花束を抱えたかのように鮮やかな黄色の葉をつけたイチョウの大木を見て、会社を辞めることを決めたことを思い出した。
やりたい仕事をするために福岡から東京に行き、必死で毎日を過ごした。朝、暗いうちに出社をし、仕事をし、ハッと顔を上げると外はもう真っ暗になっている。そんな毎日を過ごしていた。
「季節が巡っていることに気づいていない」ということに気づいたのは東京に行って1年が経とうとする頃だった。
「木々の葉の色が変わっていくことに気づきながら毎日を過ごす以上に大切なことなどあるだろうか」と思った。
仕事がちょうど軌道に乗ってきたところだったけれど、「あと一年」と決めた。
そこからの一年はあまり記憶がない。(その前の一年の記憶もあまりないのだが)
覚えているのは、次の年の春にアレルギー性の喘息を発症して「ストレスと睡眠不足が原因だから1分でも多く寝るように」と言われたこと(それ以来症状は出ていない)、その後の夏に何度か訪れたことのあるゲストハウスで、一緒になった人が翌朝川に落ちて亡くなったこと、秋の季節に海外駐在をしていた同僚が亡くなったこと、時を同じくして、乗っていた電車が人身事故を起こして急停車したこと。
「死」が近くにやってきていることを強く感じる。5年前はそんな秋だった。
今、私の中にあるのはどんな感覚だろうか。
静けさ、あたたかさ、小さな小さな心の声に出会ったときの感動。
それらを支えているのは孤独だ。
私は天性の「ひとりぼっち」なのだろうか。
少なくとも「ひとりぼっち」が繊細な感覚を磨くことを後押ししているのは間違いない。
「ひとりぼっち」のフィルターを通して世界を見ると、「結局誰しもがひとりぼっちなのだ」と思えてくる。だからこそ誰かと対になるし、群れになる。
自分自身との関係が全ての土台だと思っているが、それに加えて一番身近にいるパートナーとの関係性に向き合うことができたら、その他のたくさんの関係性や企業の中での自分自身も上手くいくようになるのではないかと思う。
人間関係はフラクタルのような構造になっていて、自分自身の中で起こること、身近な人との間で起こることがその他の様々な場面でも起こっていくのだ。
などと言う話をひっそりと一人で暮らす私が言って説得力があるだろうかと思うけれど、自分が当事者になると必要以上に共感や感情移入をしてしまい、ものごとを冷静に捉えられなくなることもある。
企業での常識を常識と受け入れてはいけないように、個人的な人間関係の中で起こることも「そんなものだ」と思わないでいられることで見えるものや後押しできることがあるだろう。
今は結婚やパートナーシップの形があまりに限定的で、ときに人を苦しくさせているのではないかと思う。
なんてことを書いている間にいくつかのことば浮かび調べ物を始めたら意識が散漫になってしまった。午後の予定までの間、ここ最近考えていることを整理し、できれば一区切りさせたい。2020.11.5 Thu 11:54 Den Haag