905. 戻ってきた静かな眠り、別れについて

書斎に入り窓の外を見上げると、思ったより空は明るくなりはじめていた。南東の空に眩しく輝く光が見えるが、あれは星だろうか、それとも飛行機だろうか。

ここのところあまり夢を見ていないように思う。

通り沿いの部屋に移していたベッドを、中庭に面した部屋に戻して、睡眠の質はすこぶる良くなった。夜遅くまで30分に一本はトラムが通るため耳栓をして寝ていたが、やはりそれは耳に負担がかかっていたのだと思う。1週間ほど前にイヤホンで音声を聞いていると耳が痛くなるようになってしまい、ベッドの場所を変え耳栓をやめたが、そうすると耳の痛みもすっかり良くなった。

起きている間も寝ている間も、静けさというのは私にとってとても大切な要素であり、これまでも気づけば静かな家を選んできたが、大学生になって初めて一人暮らしをした家は賑やかな商店街に面しており、およそ静けさとは程遠い場所だった。それでもその頃は一人暮らしができる喜びの方が、騒がしさを気にする気持ちよりも随分と勝っていた。

六畳一間のその部屋は今いる書斎を少しだけ大きくしたくらいの広さだった。

その部屋で暮らした18歳から23歳くらいまでの間は色々なことがあった。そこから引っ越した家、そしてさらに実家に戻った25歳くらいまでの時間を含めると人生の前半に起こるドラマチックなことが3倍くらいになって起こっていたのではないかと思うくらいだ。7年かかってようやく大学を卒業したときの私にとってやりたいことはもう仕事をすることだけだった。大学を卒業して1年で結婚をしたのも、恋愛にエネルギーを使うのではなく、仕事に集中したかったからだ。もちろんそのときの相手はとても素敵な人だったし、その人と一緒にいたいという気持ちも強くあったけれど、今思えば利己的な理由もたくさんあったなあと思う。

25歳くらいから32歳という人生の貴重な時期にいつも私のわがままを聞いて応援してくれた彼には感謝の気持ちが今でも尽きない。

そんなことを考えるのは、「別れ」についてのアンテナが立っているからだろう。

欧州に来てコーチングを再開して4年近くになるが、時間を共にしてきているクライアントは基本的にずっとセッションを続けている。もちろん1回や1クールでポーンと飛び出されていく方もいるけれど、継続・更新を続けられている方が圧倒的に多い。

コーチとしてはありがたい限りだし、そんな状況にあぐらをかかず自分自身が成長を続けたいと取り組み続けてきているけれど、果たして無限に続くような時間を持つことが本当にクライアントにとって良いのだろうかと思っている。

重ねれば重ねるほどに見えてくる景色があり、少なくとも1回の体験を受けるのと、3ヶ月や半年続けていくのは同じ「コーチング」という言葉で表現されていても全く質の違うものだと感じる。

しかし、さらに長い時間をともにしていくとなると、どこかで離れてみるという期間があってもいいのではないかと思い始めている。色々な景色を見ることで心の中に新たな刺激が生まれるように、色々なコーチのコーチングを受けてみるのもいいだろう。

少なくとも私は自分が最初に学んだスクール以外のコーチのコーチングを受けて良かったと思っているし、今も二人の全く違うコーチをつけていることで自分自身の認識や感じる世界が広がり続けているのではないかと感じる。


コーチにも専門性があるし、一人一人の成長や変化にも適切なペースやタイミングがある。コーチングに関わらず「別のものを体験してみる」というのは新たな化学変化を起こすことにつながり、たとえまた同じコーチとのコーチングを継続することになったとしても違う景色が見えてくるだろう。

コーチングを始めたばかりのコーチにとって「どうやって継続するか」は一つの大きなテーマだが、継続が当たり前となった今、ここまで自分が大切にしてきたものを「よくやってきたね」と労いつつ、さらなる進化・深化に自分自身が挑みたい。

たくさんの人に関わりたいという気持ちは今でもそんなになくて、少なくとも、一人一人のあゆみに合わせた関わりの質を高め続けたいと思っている。そのプロセスで探究したこと、手に入れたことは、きっと何かの形でたくさんの人にも届けることができるだろう。

永遠ではない時間。

だからこそそこに美しさがある。

大切だからこそ、限りをつくる。

今年が始まるときに立てた2020年の目標を気づけば通り過ぎている今、足元にできつつある確かな場所から、早くも離れるときが来ているようだ。こんな風に私はいつも、「安心」を壊してきた。これからもきっとそうしていくのだろう。

だからこそ全ての出会いは本当に一期一会で、感謝と祈りとともに、その瞬間に共にあることに取り組み続けたい。2020.11.3 Tue 7:46 Den Haag

906. アニメ声とアヒル口

2時間ほどつけっぱなしにしていたであろうYouTubeを閉じると静けさが戻ってきた。ある程度散漫な注意力を必要とする作業(というのは変な表現だが、そう言うのがしっくりくる)をする横で、『鬼滅の刃』のアニメを流していた。

11月末に『鬼滅の刃』を題材にした勉強会をするため、漫画だけでなくアニメも見ておこうと思ったが、最初の数話見たところで漫画を割と忠実に再現していることが分かったため、「よっぽど大きな違いがないか」の確認のために、耳で聞くことを中心にして流し続けていた。

登場人物の声やセリフを聞きながら時折違和感を感じた。その違和感は「イメージしていた声との違い」から来る違和感である。普段日本のアニメを見ているわけではないので、「あのキャラクターと同じ声だ」という違和感を感じるわけではない。

つまり私は、漫画を読むときに声をイメージして読んでいたということになる。この違和感は、私以外の人にも起こることなのだろうか。その感覚の大きさの差はあれど、多少なりとも同じようなことを感じる人はいるだろう。

声というのは、その人の存在そのものを表していると言っても過言ではない。身体の大きさ、体質、食べているもの、感情、意識の状態、これに「言葉」そのものが加わるとその人の価値観や意識構造といった情報が乗ることになる。

私たちは普段無意識に、人の様子からその人の声を想像しているし、人の声からその人の様子を想像している。特に『鬼滅の刃』は、登場するキャラクターの心理状態が複雑で、かつ戦闘のようなシーンも多くある。キャラクターの声を演じる声優たちはもちろん心境や状況を再現しようとしているのだが、そもそも、アニメで私たちが見ることができるのは二次元のキャラクターである。ということを考えると、あてられた声に違和感を感じるというのはごく自然なことなのかもしれない。

中学生の頃だったが「アニメ声」という言葉があった。(今もあるのだろうか。)とある一定の基準において「可愛い」と評価される声を真似ることが起こるのは自然なことだと想像するが、やはり本来持っている声ではない声を出そうとすることは不自然ではないだろうか。(もちろん、もともとの声がアニメ声のような人もいるが、そうではなく、わざわざアニメ声をつくるときの話だ。)

「アニメ声」に「アヒル口」、どうも人は自分ではないものになりたがるようだ。

そういったものは分かりやすいが、女性は「可愛い」と評価されるものに、男性は「優れている」と評価されるものに、無意識に自分自身を合わせようとしているというのは珍しくないだろう。10代後半から20代前半ごろにかけてはそれもある種自然なことなのだと思う。

しかし、そのとき、もしくはもっと以前から意識に染み付いた基準というのを客観的に捉えることはなかなか難しい。それでも無意識ではどこかでそれは「自分のものではない」ということが分かっていて、だんだんとエネルギーのようなものが失われていっているのではないだろうか。

人がどのように慣習や文化に支配されていくか、そしてどのようにそこから脱却していくことができるかというのはできるだけ早くまとまった時間を取ってまとめていきたい。

そんなことを考えている側から、「先日注文した本が届いているだろうか」という考えが浮かんできて、1階の玄関に降りると、案の定、小さな包みと、封筒が届いていた。

オランダに住む日本人の方が書いたアムステルダムを中心としたエリアの雑貨屋や影を紹介した本が発売されたということで注文をしたものだった。当分は日本から訪れる人もいないだろうけれど、できれば来年の春や夏には誰か遊びに来てくれるといいなと思っている。それまでの間は本を開いて妄想散歩を楽しむことにする。

もう一つの封筒は、移民局からのものだった。先日、ビザの更新申請をオンラインで行なったため、それに関する案内が送られてきたのだろう。未だにオランダ後は全く分からないので、これから粛々と翻訳作業にあたることにする。2020.11.3 Tue 20:09 Den Haag