902. 物語の構造、世界を創るということ

週末らしい週末がやってきた。と言っても今日はまだ勉強会に参加する予定があるし、きっと明日明後日も結局家にこもっているだろうし、かれこれ考え事をして感覚も思考も使うことになるだろうけれど、それでも「土日休み」というのは何だか特別な感覚がある。曜日に関係なく活動をしていて、平日もゆっくりしているときはあるものの、だからこそいつもとは違う感覚なのだろうか。

なんてことを考えながら手帳をパラパラめくってみると、土曜か日曜に仕事の予定がないということは月に1回くらいはあるということが分かる。思ったよりもずっと頻繁だ。しかし何だかとても久しぶりな感じがしているのは9月の休みには友人に会いにフローニンゲンに遊びに行って以降、いわゆる「連休」というものがなかったからだろう。

フィンランドの先生が「教育はクリエイティブな仕事。クリエイティブな仕事をするには休みが必要」という話をしていたと伝え聞いたことを思い出す。

一日の中でも余白はふんだんに設けてはいるが、一週間、そしてもっと長い単位で見てもそんな時間は本当に大切で、そんな時間があるからこそひとりひとり、ひとつひとつの時間での向き合い方の質を高めることができるのだと思う。

昨晩はすでに「おやすみモード」になっていたこともあり、途中までになっていた『鬼滅の刃』を、改めて最初から読み直し、さらに読んでいなかった10巻以降も読み進めた。

多少急いで読み進めたこともあり、最初に読んだときほどの衝撃はなかったが、物語に登場する「鬼」というのは改めて興味深いテーマだと思った。

太陽の光を浴びると死んでしまうという鬼はまさに人間のシャドウを表しているのだろう。鬼側のトップと、鬼を狩る側のトップが元々は同じ血筋だったという話からもそれが分かる。

少し前に完結を迎え、それまで読み進めていた『約束のネバーランド』も、人間を食べる鬼が出てくるがやはり鬼側のトップと人間側のトップが同じ(というと語弊があるかもしれないが、ざっくりいうとそんな感じだ)だった。

「世界」だと思っていたものの外側にまたさらに広い世界が広がっていたというのは、『約束のネバーランド』と『進撃の巨人』に共通する構造であり、主人公が、本人が望んでいなかったにも関わらず戦いの旅に出ないといけなくなるというのは『鬼滅の刃』と『進撃の巨人』、そしてその他の多くの物語に共通する構造だ。

私は普段漫画を読むことがさほど多いわけではないが、ヒットする漫画というのは、何層にも折り重なる人間の意識構造や社会の構造、その中で起こる葛藤を絶妙に描いているということをつくづく感じる。


物語をつくるということは、物語の世界の創造主になるということに等しい。

もしかすると漫画を描く人というのは描いている途中にどんどんと意識の変容や視点の拡張が起こっていくのだろうか。機会があればぜひ漫画家の方に話を聞いてみたいものだ。

決まりをつくるということや組織を運営するということも同様に、ある集団が活動する世界の創造主になるということにも等しいのではないだろうか。

そこにあるルールは人の行動に大きく影響を与える。例えば特殊な能力を持った人が、「変わり者」と見なされつまはじきにされるのか、その力を活かして貢献と感謝のサイクルに身を置くことができるのかも、その集団の持つルールや価値観、慣習に大きな影響を受ける。

何が優れていて何が劣っているかなど、ある一定の基準のもとにつけられた判断にすぎず、実際にはその人が優れているわけでも劣っているわけでもなく、そう判断する基準があるというだけだ。

今私たちが身を置いている世界はどんなルールを持った物語になっているのだろう。そこにはどんな価値観が持ち込まれているのだろう。
そこで締め出されてしまっているものは何だろう。

そう考えてみると、自分自身もまだまだ物語が変化する可能性があるのではないかと思う。

今語られている物語、そしてまだ語られていない物語にもっともっと耳を傾けることができたら、眠っているさらなる可能性のようなものも発揮させることができるだろうか。それとも葛藤や苦悩が多くなっていくだろうか。

そのどちらもだろう。

しかし今は、葛藤や苦悩が多くなることも含めて人生の味わいであり、人生全体なのではないかと思っている。2020.10.30 Fri 10:34 Den Haag