892. 余白をつくる


書斎の小さな机の前のバランスボールに腰掛けようとすると両足の腿の違和感を感じた。筋肉痛だろうか。昨日、書店での徘徊を含めると合計1時間半くらい歩いたことになるが、それで筋肉痛になるということは普段いかに歩いていないのだろうか。

確かに一日、トイレに行くか、キッチンに飲み物を作りに行くくらいしか動かなかったなあという日はざらにある。仕事部屋として使っているリビングの脇にはヨガマットをひいており、その横にバランスディスクもあるのだが、「一日何セットかスクワットをしよう」という朧げな考えを実行したことはまだない。怠惰な私にとって今やっていることや続けていることは奇跡にも近いだろう。

昨日は書店のある商店街の手前でヨガスタジオやセラピールーム、お茶屋さんなどを見かけた。さらっと気持ちの良い気が流れる場所を見て、やはりリアルな場所の力は強いと感じた。場所そのものが持つ力というのももちろんあるが、何よりその場をととのえている人がいるということは大きいだろう。どんなに良い場所にあっても、放っておけばそこに流れるはずの気は滞ってしまう。留まることのない意識をつくるのは、気の留まることのない場所なのだ。

いつか、辺境の地に静かな茶室のような場所をつくりたいと思っていたが、それは叶えられるだろうか。場所をつくることだけであればそのうちできるかもしれない。しかし私が思い描いていたのは、自分自身と向き合う人たちが「2,3年に一度ふらりと訪れる場所」になることだ。静かにお茶を飲み、静かに言葉を交わす。言葉が交わされない時間の方が長い、余白に満ちた場所。屋号でもあり大好きな言葉でもある「あわい」は、何かと何かのあいだのことであり、余白のことだ。

今、人と人との関わりの多くが行われるようになったオンラインの世界は、たくさんの情報や関わりに溢れているが余白は少ない。私たちは場に生まれる間を、どれだけ待つことができるだろうか。

埋まっていることやたくさんの言葉があることに価値が置かれる世界。その中では言葉にならないものがどんどんと取りこぼされてはいないだろうか。

オンラインの世界にもあたたかな質感を感じることができたら、微かなもの、曖昧なもの、柔らかいもの、儚いものをもっと許し合うことができるだろうか。

何か今、とても静かで力強い静けさが自分の中にあることを感じている。2020.10.19 Mon 8:37 Den Haag