886. ステレオタイプや慣習から脱して自分に気づく

 

南東の空にすっと筆でなぞった線が滲んでいるような細い三日月の朧月が見える。その隣にはやはり滲んだ星が一つ。あの月と星は日本からも見えているのだろうか。

書斎の机に向かって日記を書くのが随分と久しぶりに感じる。

昨日は協働している企業が開催するシンポジウムに参加するために朝7時にはパソコンの前にスタンバイしていた。暗い部屋でまだぼんやりとした意識の中、「画像無しの参加でOKということで本当に良かったなあ」と思いながらZoomURLをクリックしたところ「ホストは8:00MTGを開始する予定です」という表示が出た。なんと1時間時間を間違えていたのだ。開始時刻だけでなく、終了時刻も1時間ずれて手帳に書き込んでいる。どうやら時差の計算を間違えたようだが、書き込むときにはサマータイムが終わっている前提で計算をしたのだろうか。

その次に入っている予定との間に十分空き時間をとっていたことにホッとした。

シンポジウムでは新商品の発表や新しい提携先との対談などが行われ、企業として向かっている方向性に改めて大きな共感を感じた。

一方で、一つだけ気になることがあった。新しいものを提案する側に立つ人たちが「ステレオタイプな家族のイメージ」を更新できていないのではないかという点だ。キッチンのパースに入っているのは必ず女性のイメージで、「お母さんが料理をしていてお父さんはリビングでテレビを見ている」ということが言葉としても当たり前のように出てくる。これはおそらく日本の同じ業界の企業のほとんどでそうなのだろう。

オランダでは「家族」や「パートナー」のイメージを想起させる写真には、男性同士や女性同士の組み合わせも含まれているのを目にすることが多い。オランダでは国際養子縁組も多いため、子どもが親と同じ人種ではないイメージ写真もあるだろうと想像する。

文化的・歴史的背景も違う国を単純に比較するのはナンセンスかもしれないが、大事なのは私たちが何かを社会に発信するとき、それがときに社会についてのイメージとなり、メッセージとなるということだ。

私自身、2年ほど前に日本を訪れたときに元同僚の女性と会ったところ妊娠中だということが分かり思わず「結婚はいつされたんですか」ということを口にした瞬間、「色々な家族の形がある」と頭では思ってきたにも関わらずまだ「結婚をして子どもを産むものだ」という考えに捉えられていることに気づき自分に対して愕然としたことがある。

「何か特定のイメージを持つ」というのは自然なことでもある。人は自分が生きてきた世界の中で見てきたものがあるし、それが世界なのだと思って生きてくる。しかしその中で「除外されていたもの」や「認識されていなかったもの」があることに気づかなければ、取りこぼされる誰かを、ときには自分自身の一部を「なかったもの」として扱い続けることになる。

心理学でも「欠損」という考え方があるが、「ない」ということに気づくのは非常に難しい。

そんな中、「ない」と思って切り離されていたものを統合することは個人の意識においても社会においても、自然な成熟に向かうためにとても重要なことだ。

そこで必要なのが他者との対話や慣習の外に出ることだ。

そのときに、世界との接点にあたたかな質感を感じることができたら、「ない」と思っていたものが恐ろしいものではなく、愛おしいものに思えてくるだろう。

最近、私が行っているのは一人一人の持つ世界との接点、クオリアの質感を変えることなのかもしれないという気がしている。

鎧を脱いでも大丈夫なのだと気付き、一歩踏み出したとき、世界はこんなにも美しくあたたかな場所だったということを感じ、自分の中に湧き上がる、「ない」と思っていたことさえも祝福する気持ちに包まれることになるだろう。2020.10.14 Wed 8:03 Den Haag