872. 新しい買い物についての少しの後悔、組織の脆弱性について

パソコンを持って書斎にやってくると、窓が結露していて驚いた。先ほどベランダに出たときにはそう寒さは感じなかったが、夜の間、外は随分と冷え込んでいたのだろうか。二重になった窓、そして窓の下に据え付けられた暖房を見て、冬の間も快適に過ごせる家に暮らせていることをあらためてとてもありがたく感じた。

今日はすでに、朝一番の仲間との対話の時間を終え、先週の日記もサイトにアップをした。意識はすっかり覚醒しているが、落ち着いて日記に向き合える感覚がある。


昨日は一昨日注文したケーブルが届き、wi-fiのルーターからパソコンを直接つないでみた。先々週あたりからインターネットが不安定で、打ち合わせ中に何度か画像が止まり、音声が途切れてしまうということが続いていた。幸いにもコーチングセッションにおいてはそんな症状は出なかったので、複数人数の画像をONにしての会議だと何か具合が悪くなるのかもしれないが、インターネットの回線が安定しているかどうかは私にとっては命綱のようなものだ。

どんなに注意しても自分ではどうにもならないこともあるため、万が一回線が不安定になって打ち合わせが続行できなかったとしても決定的なダメージにならない関係性および内容の相手と仕事をするようにしているが、そうは言っても、不安がないにこしたことはない。

我が家では通り沿いに面したキッチンの端にwi-fiルーターが据え付けてあるため、仕事場として使っている部屋までは多少距離がある。そんなわけで、数ヶ月前にwi-fiの中継器を購入し、そこから5Gの回線(と呼ぶのが適切なのだろうか)を拾うような設定にしていたのだが、この数週間は5Gの回線の調子が悪かったようで、結局、中継器を経由しない電波をパソコンが受け取っていた。

そんな中、接続が不安定なことを感じ、有線での接続のためのケーブルを購入するに至った。書斎でも使うことを鑑み20mのものを購入したが、昨日、早速届いたケーブルをつないでみると随分と長さが余ってしまった。長さもだが、気になるのはその色だ。

ケーブルにも規格があることを知り、CAT6という規格のもの、かつ厚みの少ないタイプを選んだところまでは良かったのだが、何せその色が青だった。青と言っても彩度がさほど高くはない青なので落ち着いた感じではあるのだが、キッチンから寝室を通り、リビング兼仕事部屋まで青い線が伸びているのがあからさまに見えるのはあまり気持ちがいいものではない。

注文するときの自分を振り返ってみると、多少心が焦っていたこともあり、また、薄いタイプを見つけた喜びもあり、勢いで「ポチり」と注文してしまったように思う。

メジャーを持ち出してwi-fiルーターからパソコンを使う場所までの距離を測ったときに、「実際ここに線を這わせるとどんなイメージになるか」ということを想像しなかったことが残念でならない。

通信速度、ケーブルの長さ、値段。随分と計測可能な分かりやすいものばかりに意識が向いていたものだ。

という反省はあるものの、ルーターから直接つないだところやはりインターネットの接続は良くなったように思う。

接続が良くなったものだがから「動画も安定して見ることができるだろう」という考えが湧いてきて(これまでも動画を見るときにそこまで不安定だったわけではないのだが)、先日、フローニンゲンに住む友人が日記に書いていた「This Giant Beast That is the Global Economy」が、加入している日本のAmazonAmazon prime Videoのラインナップにも入っていたため視聴を始めてみた。

これはものすごくざっくり言うと経済の話だが、三話目までを観て印象に残っているのがゴムの木の話だ。ゴムの木は単一の細胞からクローンを作っていく性質を持っているという。それはつまり、病気が発生すると、あっという間にその病気が広がりゴムの木たちが死んでしまうということを意味する。実際に、1930年代、ブラジルではゴムの木の病気が広がり、当時はブラジルがシェア90%を占めていたゴムの原料の生産量が今では0.01%になっているそうだ。

「安定したゴムの原料の供給を続けるためには、原料を生産する植物に多様性を持たせることが必要」というような話を聞きながら、同様のことが組織にも言えるだろうということを考えていた。

どんなに「優れている」と言われる行動や思考様式であっても、同じ行動や思考様式の人たちだけが集まったときは、どこかに脆弱性が生まれてくるだろう。「脆弱性」という表現はあまり適していないかもしれないがある特定の状況下において、特定のアウトプットがなされるというパターンのようなものがあると考えると良いかもしれない。個人としてそのパターンに広がりを持つことができるようになることとともに、組織内全体を見渡しても広がりや多様性があることが組織が生き残るためには重要になってくるだろう。もちろん「そもそもその組織は生き残るべき組織なのか」という前提も出てくるだろう。しかし、少なくとも「同じものがコピーされ、均質な状態」というのが危うい状態であるということは間違いない。

そんなことを考えている間に、部屋の中の温度がどんどんと下がってきた。

「あたたかく静かな対話」の私にとっての前提は、物理的環境が整っていること、物理的身体があたたかな状態でいられていることだ。

先日引っ張り出した冬服に着替え、あたたかい飲み物を入れ、意識と心をととのえていくことにする。2020.9.30 Wed 9:59 Den Haag

873. 子猫の冒険を見て人の人生を思う

人は自分の人生について知らない。

そんなことを、開け放ったバルコニーに続く扉を閉めながら思った。目に入っていたのは、向かいの家の壁に茂る蔦だ。一階部分から三階部分に届きそうなくらい、長さで言うと7mは伸びているであろうその蔦は、下の部分からだんだんと赤く色が変わっていき、今は全体が赤に染まっている。「あの蔦の美しさを向かいの家に暮らす人は知らないのだ」と思ったとき、同時に、「向かいの家から見るとこの家が、そしてこの家の壁がどんな風に見えているのか私も知らないのだ」ということに気づいた。

そうして、ああ、これが人生なのだ、と思った。

向かいの家との間に建つガーデンハウスの屋根に頼りなさげな体をした薄いオレンジ色をした小さな猫がいることに気づいたのは数十分前だっただろうか。

ガーデンハウスの横に伸びる大きな梨の木の幹をふむふむと嗅ぎ回る。その猫は少し前に向かいの家にやってきた子猫だが、ガーデンハウスの屋根に登っている様子を見るのは初めてだった。

子猫の「ふむふむ」は、他のこれまで見たことのある猫たちのどれとも違った。中庭で見かける猫の中には他の猫に比べると小柄な黒猫もいて、私はその猫を長いこと「幼い猫」だと思ってきたのだが、その黒猫の動きとも明らかに違う。好奇心や興味とともに怯えのようなものを感じるのは、私が知らない世界に出たときの自分を小さな猫に重ね合わせているからだろうか。

ふむふむ、ふむふむと地面を嗅ぎながら、子猫は我が家の正面にあるガーデンハウスから隣の家の一階部分の屋根に移っていった。

その間、何度か向かいの家に住む女性が庭に出て屋根の上の様子を伺う。ほどなくして「リッタロー、リッタロー」という声が中庭に響いた。女性が猫を呼んでいるのだ。そんな声に気づいているのかおかまいなしなのか、とにかく猫はふむふむを続け、さらに隣の家の屋根に移り、屋根の脇の茂みに潜り込もうとしている。

向かいの家の人たちはきっと心配しているだろうと思い、書斎から隣のリビングへ、そしてリビングからバルコニーへと私も動く。

バルコニーに出るとちょうど女性が屋根の端に顔を出しているので、あっちに見えるよと指を指して伝える。ほっとしたのか、女性が笑顔になる。そして、外に出るのは今日が初めてなのだと言ってくる。

それは本当に、猫にとっては未知の世界に飛び込んだような感じだろう。世界に飛び込むのに、中庭はちょうどいい。色々な草木が茂って、立体的に動くことはできるけれど車はこないし、よっぽどのことがなければ(三階部分の三角屋根をまたがなければ)猫が中庭の外に出ることもない。

「オランダの人たちはこんな風に子どもの様子も見守っているのだろうか」という考えが浮かんでくる。猫と暮らしたことがないので分からないが、猫はちゃんと自分の家に帰ってくるものなのだろうか。中庭であってもあの小さな猫を自由にさせることに勇気は要らないのだろうか。「きっとどうにか帰ってくるだろう」と信じられるのだろうか。

そんなことを考えながら書斎に戻り窓の外を眺めていたら、いよいよ帰ってこない猫を心配したのか、女性や子どもたちがまた庭に出て「リッタロー、リッタロー」と声を上げ始めた。

正直なところ、彼らが呼んでいるのが「リッタロー」なのかさえ分からないが、少なくとも私の知っている音ではそんな風に捉えられている。そもそもオランダの人たちは猫にどんな名前をつけるのだろうか。

気づけば私もすっかりリッタローのことが気になり、書斎の窓から、リッタローが姿を消した二軒先の家の1階部分の脇の茂みを何度も見ている。

と、またくたくたとした子猫が茂みから姿を現す。てとてとと屋根の上を歩いてこちら側に近づいてくる。

向かいの家の男の子がガーデンハウスの屋根に登り「リッタロー」と声を上げる。どうやらあちらからは猫の様子が見えていないようだ。

再びバルコニーに出て「ここにいるよ」と声を上げ、指を指す。

しばらくして、リッタローは自分で向かいの家に近づいて行き、無事、ガーデンハウスの屋根から家の庭に降りたようだった。家の入ろうとする向かいの家の女性が振り返って笑顔で手を振るので、私も書斎から手を振る。

間も無く、顔を上げると今度は向かいの家のリビングの机に座った男の子がこちらを見て手を振るので、また手を振り返す。

そして今、向かいの家の一階部分の誰もいないリビングにはオレンジ色の灯りが灯っている。

あそこに、あたたかな幸せがあるのと同じように、きっとここにもあたたかな幸せがあるのだろう。

屋根に登る猫も、猫を探す一家も、私には全てが(全てがというのはちょっと大げさかもしれないが)見えていたけれど、一家は猫が屋根の上でどんな冒険をしていたかは知らない。

私も、向かいの家の一階からどんな景色が見えるのかを知らないし、我が家の上の三階からどんな景色が見えるのかも知らない。

人は自分の人生を見ることはできない。屋根の上に登った猫が帰って来ようとしていることも見ることはできない。

私が日々対話の中で伝えようとしているのも、相手には見えない「その人の人生」なのかもしれない。

人は、誰かに語り、それを伝え返されることで初めて、そこにある人生に気づくことができるのかもしれない。

屋根の上を歩く子猫を見守っていたと思ったけれど、そんな私もきっと誰かに見守られているのだろう。2020.9.30 Wed 19:47 Den Haag