869. 月曜の朝に見た、玉露を煎れる夢

 

空が白みがかってきていることに気づき、部屋の中で点けていたスタンドを消した。向かいの家の壁をつたう蔦が随分と赤くなっていることに気づく。日が当たりづらそうに見える下の部分から赤くなっていっていることが不思議だ。

日本も、季節が秋へと巡っていっているだろうか。

今私の中で日本が遠い国になりつつある。

ハーグは現在、新型コロナウイルスの感染者が増加したことに伴い、隣国のベルギーとドイツからコードレッド(不要不急の外出を禁止する先)に指定されている。オランダ全土も日本から渡航中止勧告の対象国となっている。

日本にいるパートナーがオランダを訪れることを首を長くして待っていたが、どうやらそれは現実的ではなく、少なくとも年内は難しいだろう。会えないことはとても残念だが、協働して何かを作ることには取り組んでいきたい。

パートナーが当分やってこないとなると猫でも飼おうかという気がしてくる。向かいの一家も少し前に猫を飼い始めたようだが、ヤンさんはこの家で猫を飼うことを許してくれるだろうか。こんなにも綺麗に手入れを続けているから、きっとできればこのまま綺麗に使うことを望んでいるだろう。

なんて、幾分か感傷的になっているのはこの寒さのせいもあるだろうか。天気予報のアプリで見ると現在の気温は15度。体感温度はもっと低いように思う。白湯を飲んだ後に入れた大麦若葉のドリンクはすっかり冷めてしまっている。とにかく、冷えは大敵である。

今日の夢にはお茶を淹れるシーンが出てきた。

黒い、手のひらを二つ合わせたくらいの大きさの丸くて平たいお皿に玉露のような深い緑色の茶葉が広げられていた。

そこに実際に家で使っている黒いケトルでお湯を注ぐ。本来であれば玉露もしくは煎茶の茶葉には湯冷ましをした湯を使うのが好ましい。そのため「ああ、こんなに熱々のお湯を注いでしまっては美味しいお茶が入らないかもなあ」ということを考えながらもジャバジャバを湯を注いでいた。

するとその様子を見ていた「師匠」のような人が「良いお湯の注ぎ方だ」というコメントをした。「お湯に直接意識を集中させるということが大事だ」というような話をしていたように思う。

それを聞いた私は「変な淹れ方だと思ったけれど、そういう考え方もあるんだなあ」ということを感じていた。

もっと長く、色々な夢を見ていたように思うが、このシーンだけがなぜだか今も強く記憶に残っている。

そんなことを書きながら、この部屋でお茶を淹れることができるように新しいコンロを買おうという考えが湧いてきた。そういえばこれまではこの時期、リビングにしていた北側の部屋で電気コンロを使って湯を沸かしていた。電気コンロ(電熱線の入ったコンロ)であればIHよりもずっとゆっくり湯が沸くし、湯を沸かしていたら部屋全体もあたたまる。何よりいつでもあたたかいお茶を淹れることができる。

そうなると、今はキッチンの脇に並べている茶器たちをリビングの一角に奥のも良いかもしれないという気がしてくる。瞑想をするように日々何度もお茶を淹れることができたら心の中には一層、静かであたたかなスペースが広がっていくだろう。

この家で一人冬を越すのであればなおさら、心地よい空間を作っていきたい。何よりもここは、見えないながらも人の心を招き入れている場である。どんなときも静謐さとともにあり、言葉にならないものに心を澄ませ続けたい。2020.9.28  Mon 9:07 Den Haag

870. 質問よりも大切なこと、美意識を育んでいるか

 

何だか薄暗い一日だった。もしかすると今日は全く日が差さなかっただろうか。

とは言え、今は白い空が広がっている。頭に少し違和感があるのはうっすらと一日降り続いた雨の影響もあるだろうか。

日々、対話とは何かを考え、その考えが更新されていっている。
日々、人の心が望んでいるものについて考えを巡らせている。

最近つくづく感じるのは、奇をてらった質問などいらないということだ。

コーチングを学ぶと、あたかも対話や「聞く」ということのために質問が必要なのだという気になってくる。確かに質問がきっかけでそれまでとは違った視点で考えを巡らせることになるということも多々あるが、何より大事なのは、その質問が、質問者の中で創発されたものであるかどうかだ。

心の中から湧き出てきた、本当に聞いてみたいということであれば、オープンクエスチョンでもクローズドクエスチョンでも構わない。質問という形を取っていなくてもいい。心の中に湧き上がってきたことを口にするだけでもいい。

とにかく、「なまもの」であることが大事なのだ。

発せられるものがどんなものであっても、それを発している存在そのものに耳を傾け、分からないものとして聴き続ける。その姿勢が大事なのだ。

それは私が、一定以上の経験を積んで様々な問いが自然に出てくるようになったから感じることなのだろうか。質問を学ぶことは人の話を聞く上でやはり重要なことなのだろうか。

「守破離」という言葉があるように、確かに、最初に何らかの型を身につけることは大事だ。私自身、型を学んだことは決して無駄ではなかったと感じる。しかし、現在、いわゆる「コーチングスキル」として学ぶような質問やモデルのようなものが本当に必要かどうかは検証し直す必要があるだろう。

少なくともある一定以上の経験を社会の中でしている人たちが学ぶべきなのは質問のスキル等ではなく、人間哲学のようなものではないだろうか。

思い返せば、お習字のお稽古もお花のお稽古も、お茶のお稽古も、確かに最初に型があった。しかしそれとセットになっていたのが「先生のお話」だ。なぜそこにスペースを空けるのか(これはお習字でもお花でもお茶でも共通する考えだと気づき、驚いている)なぜその手順で行うのか。そこにあるのは単に便利さや速さを追求した理由ではなく、ひとえに、「美」という理由だったと思う。そう、先生たちからはいつも美、もしくは美意識について教えを受けていたのだ。

それが現在、スキルを学ぶ場面においてはどうだろう。それがどんなものであっても、自分なりの美意識を、自分なりの言葉で語れる人がどれだけいるだろうか。人生を通じて学んだことを伝えられる人がどれだけいるだろうか。

世界のスピードは随分と速くなっている。そんな中で、美意識や哲学を深めることなく学び、そして教えることになっているのではないだろうか。

そんな言葉は、自分の方に、大きな矢となって返ってくる。

どれだけ美と向き合えているだろうか。
どれだけ哲学と向き合えているだろうか。

ここで言う美や哲学は、誰かが語る美や哲学ではない。

自分自身の体験としてとしての美や哲学だ。

人と向き合うことにおける美意識は人と向き合うことでしか養われないだろう。
人と向き合うことにおける哲学は人と向き合うことでしか養われないだろう。

その根本は、まず、自分自身と向き合うことだ。

今、こんなにも静かで、ゆっくりとした環境の中で、どれだけ自分と向き合うことができているだろうか。どれだけ、時間を共にする人と向き合えているだろうか。

再びやってきたオランダの寒い季節。
一人で過ごすことになるこの冬はまた、とことん自分と向き合い、籠る時間になるだろうという予感がしている。そんな中でも感じること、考えること、書くこと、表現することを日々積み重ねたい。

今日はこのあとパソコンを閉じて、途中で読むのが止まっていたフォーカシングとアートセラピーの書籍を読み進めたい。2020.9.28 Mon 19:15 Den Haag