865. 猫のような鳥の夢と、アイドルグループを育成する番組に仕掛けられた巧妙な物語


バケツをひっくり返したように雨が降り出したのが20分ほど前だっただろうか。今はもうそれが夢だったかのように中庭に明かりが差し込んでいる。正面に見えるガーデンハウスの向こうの木下に、猫の頭のシルエットが見える。喉元が白い。シルエットの中にある二つの半月がゆらゆらと大きさを変え、すうっと消えてはまた現れる。木の下で寝ていたところに雨が降り始めたのだろうか。

ベッドから出る直前に見ていた夢では猫のような鳥が出てきた。日本にいる仲間と電話で話しながら出先から家の中に帰ってきたところ、ハッと気づくと目の前に体はオレンジ色で尾の部分は浅葱色(あさぎいろ)をした鳥がいた。頭から足の先まではハードカバーの本を二冊縦に並べたほどの大きさがある。鳥を見た瞬間に、「この鳥は外に出たがっている」と思った。そのために少し殺気立っているようにさえ感じた。鳥に気づかれると攻撃されてしまうかもしれないと思いながら近くにあった掃除機を手に取り、1mほどある吸い込み部分の管を使って近くの窓の鍵を開け、窓を開け、さらにその先にある網戸を開けた。そうしている間に気づけば鳥は体全体が浅葱色になっており、かつその尾は猫の尻尾のようにふわんふわんと揺れるようになっていた。ようやく網戸まで開けてほっとしたところで夢の意識が浅くなった。

シャワーを浴びた後に身支度をしながら、「そういえば、夢の中の家に網戸があったということは私は日本の記憶を元に夢を見ていたのだろうか」「意識せずとも長く染み付いているものがあるんだろうなあ」ということが頭に浮かんだ。

鳥の夢の前にはさらに壮大な夢を見ており、一度目覚めたときには割と鮮明にその内容を覚えていたのだが、今はもう随分と薄れてしまった。

覚えているのは大きな駅で電車の乗り換えをするシーンが出てきたこと。大きなホテルのような場所で、ホテルの中がプールになっていて、そのプールの中を通り抜ける螺旋状かつ透明の階段室のようなものを上っていったことくらいだ。その夢には随分とたくさんの人が出てきた。

夢のことを思い出し、一息ついて深い呼吸をしていたら、昨日まで観ていた動画のことを思い出した。韓国の音楽プロデューサーが日本でオーディションをし、世界的なアイドルグループを作るというもので、少し前に放映されていたその番組は日本で人気になっていたようだ。

一人一人のオーディションの参加者のパフォーマンスに対してその場で良いところ・成長したところを惜しみなく褒め、もう一歩のところもハッキリと伝えるプロデューサーの関わりや「型にはまったアイドルではなく、何をしていても自分らしさが出ているのが大事」という考え方を見て「これが人の才能を育てる人なのか」と感じたが、一方で、そこにある物語の構造に対して冷めた目を向けている自分もいた。

そこには「小さな世界」の基準を人生の全てにも感じさせる物語が巧妙に仕掛けてあり、さらにその外側にも「世界的なアイドルになることが成功」という絶対的な物語があった。おそらくプロデューサー自身がその物語の中にいるのだろう。才能を期待されながら、早い段階でオーディションの次のステップに進まないことを選んだ参加者もいたが、その参加者はその先に広がる物語に自分の真の幸せを感じられなかったのではないかと思う。

それぞれの業界や組織、個人にそれぞれの物語がある。物語があるから、その中で生きている実感を感じることができるとも言えるだろう。しかし、自分が身を置いている物語そのものを疑わず、盲目的に信奉するならば、それは独裁者に人間としての尊厳を奪われている状態とさほど変わらないのではないだろうか。

人が努力する姿、涙する姿は美しく、そこにはその人の人生の真実があるだろう。そのひたむきさや純粋さ、その姿にさらに涙する人々、熱狂する人々が、悪気なくそこにある物語を強化していく。純粋に信じるからこそ、恐ろしいとさえ感じる。

そう思う私が今信じて止まない物語はどんなものなのだろうか。その存在と一体となり盲目的になっているものは何だろうか。いつか、今見ている夢が覚めて「ああ、こんな物語の中にいたのか」と思うときに、どんな感覚がそこに生まれるのか、恐ろしくもあり、楽しみでもある。2020.9.26 Sat 8:56 Den Haag

 

866. 梨の木とヤンさん

 

少し前に書いた日記のデータを整理していると「昨日のことでまだ随分と言葉にしていないことがある」ということに気づいた。

記憶というのはどういう仕組みになっているのだろうか。ある一定の意識状態にならないとアクセスできない記憶の領域というのがあるのだろうか。(それとも単に私が忘れっぽいだけなのだろうか。)

昨日のことで浮かび上がってきたのは階下に住むオーナーのヤンさんのこと、そして寝るときに感じた視覚と聴覚の関係についてだ。

昨日の午前中、「バルコニーを見ていいか」とヤンさんが訪ねてきた。どうぞとバルコニーに続く扉を開けると、ヤンさんはバルコニーに出てひょいと柵を乗り越え、1階部分の屋根に降りた。ヤンさんはおそらく父と同じくらいの年齢なのだが、驚くほど元気だ。元気、というのは何ともざっくりとした表現だが、「自分の家の手入れを自分で行い、体も頑丈そうだ」というニュアンスである。

ヤンさんが屋根に降りている間に、先日葡萄を入れて持ってきてくれた大きくて透明な器をキッチンから持ってきて、屋根から戻ったヤンさんに葡萄のお礼とともに手渡した。「もしまだ食べるのならあるよ」と言うので「ぜひ食べたい」と返事をすると、ヤンさんは器を手にして出て行き、ほどなくして戻ってきた。左手には山盛りになった葡萄の入った先ほどの器、右手には手のひらにおさまるくらいの白い器を持っていて、その中にはほのかにオレンジ色がかったカットされた果物のようなものが入っている。そして”This is Nashi”と差し出してくる。庭の大きな木に咲くのは梨の花だということを以前ヤンさんに教えてもらったことを思い出し、庭で採れた梨かと聞き返すとそうだと返事が返ってくる。器に顔を近づけると甘い香りがする。「梨でジャムを作ったのか」と聞くと「刻んで煮ただけだ」と言う。

お礼を言って梨と葡萄を受け取ると、ヤンさんが「ナシで合っているか」ということを聞きながら、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。どうやら私に日本語で伝えるために調べてくれていたようだ。「ナシで合っているし、私は梨が好きだ」という私の返事を聞き、ヤンさんは微笑みながら階段を降りていった。

部屋に入り、もう一度梨の入った器に顔を近づける。甘い香りがする。試しに山盛りになった葡萄にも顔を近づけてみると、梨とはまた違った、ほのかな香りがやってくる。

キッチンから小さなフォークを取ってきて角切りになっている梨に刺し、口に運ぶと、しっかりとした、でも自然な甘さが口の中に広がる。

せっかくなのでつまむだけではなくもっと大事に食べたいという思いが湧いてきて、パンを焼くことにした。いつもなら日中はフルーツと飲み物だけで過ごしているが、昨日は昼過ぎの打ち合わせまで時間があり、打ち合わせもチームの仲間と話すことそのものが目的の時間だったため「今食べても大丈夫だろう」と思い、一枚のパンにはチーズをスライスしてのせ、もう一枚のパンには何ものせずにトースターでパンを焼いた。その間に豆乳とライスミルクを混ぜたものをあたため、ターメリック・シナモン・ジンジャー・マカ・ルクマのパウダーを入れたゴールデンミルクを作る。焼きあがったパンのうち何ものせていない方のパンにもらった梨ジャムをのせると、見るだけで美味しそうなブランチが出来上がった。

まずはチーズをのせたパンを食べ、そして梨ジャムをのせたパンを食べる。

何て幸せな時間なんだろうということを考えながら、梨を煮込むヤンさんの姿を思い浮かべる。ヤンさんはきっと、それまでもそうしてきたように、奥さんが亡くなってからもこうやって梨を煮込み続けてきたのだろう。

二年前の9月、この家にやってきたときに中庭の木の木を指して「あの木には白い花が咲く」とヤンさんが教えてくれたことを思い出す。この家で時間を過ごすごとに、その言葉の奥にある、ヤンさんがここで過ごしてきた時間が、織り重なるように深さと細やかさを増していく。

私がここに暮らした時間も、その一部になっていくのだろうか。

この話を書き始めたときは二年前のヤンさんの言葉を思い出すとは思ってもみなかった。

記憶とは本当に不思議なものだ。どうやら、いつもは静かに記憶がしまわれている場所があるようだ。心に静けさがやってきたとき、その場所の扉はそっと開くのだろう。2020.9.26 Sat 10:36 Den Haag

 

867. 目を閉じると聞こえて来るもの、内容ではなくその奥にあるものに耳を傾けるために

 

昨日のヤンさんと梨の話を書いていたら思いの外言葉が積み重なっていた。それに対して、もう一つ書き留めておこうとおもった視覚と聴覚の話はあっけないものになるかもしれないが、自分にとって新鮮な体験だったので書き始めてみる。

昨晩、先週末からそうしているように耳栓をしてベッドに入った。ベッドを中庭に面した南側の部屋から通りに面した北側の部屋に移したことによって寝るときに車やトラムの往来の音が気になるようになったが耳栓をすることでそれもほとんど解消された。

しかし昨日は、今度は隣にあるキッチンの窓から微かに入ってくる明かりが気になり、「アイマスクをしたら睡眠の質は良くなるだろうか」という考えが浮かんできた。そこで早速、飛行機でもらったアイマスクを引っ張り出しアイマスクをつけてベッドに入ってみた。

そうすると、どうしたことだろう。目の前は真っ暗になったが、今度は音がこれまでよりも聞こえるようになってしまった。聞こえるといってもそう大きくはなくやはり微かにという感じなのだが、体感で言えば、アイマスクをしないときに比べると倍くらいの音量になっているように感じる。

これは感覚的には納得がいくものだ。生物として生き延びるための機能として視覚や聴覚が働いているとすると、一つの感覚が効かなくなった場合、他の感覚がそれを補完しようと強く働くのだろう。私たちの感覚や機能、能力は普段はそのほんの一部しか発揮されていないに違いない。

そんな体験の中にいたからか、「現在、企業向けに開発・提供しているプログラムにおいて何か一つのテーマしか扱わないとしたら『聴く』というテーマにするだろう」ということが浮かんできた。

現在提供しているプログラムの中では「コトではなくヒトを扱いましょう」ということを伝えているが、これはなかなか難しいという声も上がっている。そもそも、何がコトで何がヒトなのかという判別もつきにくい。そしてさらに改めて振り返ってみると「話されている内容を聞く」というパラダイム自体は変わっていないということが分かる。

話されていることだけを聞こうとしていても、大切なことは聞こえてこないのだ。言葉を自分の中にある意味解釈を通して知的理解しようという聞き方自体を変える必要があるのだ。どんな内容が話されているとしても、その奥にある、その人自身の欲求や価値観、物語を聴き、それを伝え返していくことで話し手自身が気づいていないことにつながっていくことができる。

聴くということがもたらすのは気づきだけではない。聴くという行為に触れることそのものが、自分の居場所を感じ、安全を感じ、創造性を発揮することを後押ししていく。

逆に、本物の関心無しにはどんなにテクニカルに聞いたとしても、自分が人として扱われている感じはしないだろう。だから「言葉では表現されていないものがある」という前提で聴くのだ。分かった気にならないで聴き続けるのだ。

そんなことを書いている側から、どこからともなく激しい音楽が聞こえてくる。

今多くの人が身を置く環境はあまりに情報や音や意味が多くて聴きたいと思う気持ちが湧いてこないような環境なのだろうか。自分の外側にあると思っている音は、本当に外側にあるものなのだろうか。

言葉にならないものに耳を傾けたくなるような環境、聴くことをアフォードするような環境をどうしたらつくることができるだろうか。

日本に身を置くことは私にとって色々なものが聞こえ過ぎて具合が悪いと思ってきたが、この道を深めていくと、これまでとはさらに違ったものが聞こえるようになってきて、そうしたら今度はどんな場所に身を置いても大丈夫になるのではないかという気がしてきているが、それでも今のところはできるだけ静かな場所に身を置きたい。2020.9.26 Sat 11:10 Den Haag