861. 湧き上がってくる言葉たち

 

中庭の梨の木の西側の枝、低い位置に緑色の実が一つぶら下がっている。あの実だけは鳥に啄ばまれることもなく、落ちることもなく残っているのだろうか。

向かいの家のリビングでは小柄な猫のシルエットが動く。あの家では猫を飼っていたのか。中庭で遊ぶ猫のうち1匹だろうか。それともまだ姿を見たことがない猫だろうか。

眺めるほどに、いつも見ていると思っていた景色が全く知らないものに思えてくる。

何を考えるでもなく漂う思考の中に、身体の感覚が浮き上がってくる。昨日体験した対話はまた一つ、私にとって新しい体験だった。新しくもあり、還る場所でもあるようなそんな体験。

詳細は言葉にせず、心の内に留めておきたいが「どんな瞬間も、人はちゃんと体験している」というのがあえて書き留めておきたいことだ。

次に心に湧いてきたのは「謙虚であれ」という言葉だ。様々な学びを深めるほどに、人間について分かった気になってくる。しかしそれは、ある物の見方を人間にあてはめているにすぎない。人間のメカニズムは確かに多くの人にあてはめることができるのだけど、大事なのはその人のことを知ろうとするプロセスそのものだ。

最近では「定期的に取るアンケートによって相手の状態や話したい話題を分析し、それを教えてくれる」という企業内1on1を支援するツールなどもあるようだが、それでは一番大事な部分、「この人はどんな状態だろう、何を話したいだろう」と相手に向き合うところが欠けてしまうように思えてならない。

対話というものを、コミュニケーションというものを、人と人との関わりを、あまりに狭い範囲で捉えてはいないだろうか。人間を、画面に映る範囲のみ存在する人として捉えてはいないだろうか。

このテーマについては「ではテクノロジーは何にどのように活用したらいいのか」ということを併せて考えていきたいが、残念ながら今様々な視点を持って思考できるだけの思考力とエネルギーがないことを感じる。

今日の予定に向けてコンディションをととのえることに、一旦は時間を使いたい。2020.9.23 Wed 8:18 Den Haag

 

862. 日本に蔓延する妄信的なティール論と組織が抱えるパラドックス

小さな書斎の小さな机の前に置いたバランスボールに腰掛け空を見上げる。今朝ここで呼吸をし、祈りの言葉を唱えたのがもう随分前のことのように感じる。

今日も静かに、様々な言葉たち、言葉にならないものたちと向き合った。

そこにあるのは時計が刻むクロノスではなく、私たちが主観的もしくは間主観的に体験するカイロスがあるのだということを改めて感じている。

カイロスを旅すると、現在見ている世界の景色が変わるだけでなく、過去の景色さえも書き換わる。自分の生きる物語も、他者の生きる物語も、書き換わっていく。同時に、物語を描いている自分自身も書き換わっていく。そして私たちは自分が思うよりもずっと自由で、のびのびとした制限のない存在に還ってゆく。

「できない」と思っていることは、大人になる間のどのタイミングでそう思うようになったのだろうか。「常識」だと思っていることを決めているのは誰だろうか。

今日は先日オンラインで開催された鈴木規夫さんと天下司郎さんの講義の動画を聴講した。ティールをテーマにしたものだったが、組織としてのティールというより、個人の意識段階としてのティールの話が中心であった。

中でも印象的なのが「ティールというのは、人類全体を呪縛している物語を見ることができるようになることだ」という鈴木さんの言葉だ。

これは、現在の「ティール組織」の文脈において見落とされがちなことだというニュアンスで鈴木さんが何度も言葉を変えながら表現していた。

確かに現在日本においては(他国でもそうなのかもしれないが)「ティール」ということをこれまでのパラダイムの中で語るということが往々にして起こっている。ティールだ、ジョブ型だ、1on1だなどとあの手この手を持ち出しているが、結局働く人を生産機械のように見ているのであれば、それはトップダウンだボトムアップだと言っているのとなんら変わりはないだろう。

それはインテリアの業界で北欧インテリアだ、BOHOスタイルだ、シャビーシックだなどと毎年流行りがあるのとも変わりはなく、商業的なプロモーションに乗せられ、依拠する先が変わっているだけに過ぎない。

それを「慣習に従うのも自然な姿だ」と言うこともできるが、それにしてはあまりに時間とエネルギーと経済のロスが大きいのではないだろうか。

自分たちが身を置いている物語に気づくことは世界の見方が変わることの大きな転機となるが、物語に気づくためには意識自体が変わることが必要であり、ここで「にわたま(にわとりとたまご)問題」が発生する。

日本の多くの組織は今、「生き残るためには働く人の意識が変わらなければならないが、意識が変わって、これまで人々を閉じ込めていた物語に気づかれるのはまずい」という状況の中にいるのではないだろうか。

人々が目覚めるということは、これまでの物語が終わりを迎えるということを意味する。それを組織として受け止めることができるのか。さらに大きな(願わくば人々が解放されるような)物語を描き直すことができるのか。

このテーマについてはここのところ何度も日記で触れてきたように思う。

組織の中にも多様な生態系が息づくことをよしとするとするならば、「旧態然としたパラダイムの中にいる」という状態も許容すべきなのだろうか。

まだ明確な解は出ていないが、今大切だと感じているのは、人も組織も動的なものであるということだ。変わりゆくもの、変化するものとしてそれぞれの人やさらに一人一人の中の多様な自己の居場所をどう作るか。

呼吸とともに膨らんでは萎む肺のように、生物として動的でいられる場をどうつくるか。

複雑に絡み合っているように見える糸をほぐすと全てが一本の糸のつながりだったように、ある日するりと問題が解けることを期待している。それが10年後、20年後になるかもしれないが、その間、少なくとも自分自身が呼吸をし、動的に生きる人間であり続けたい。2020.9.23 Wed 19:54 Den Haag