838. 旅を終えて

空に薄く広がる雲が鴇(ときいろ)に染まる。

昨晩、フローニンゲンの街で目覚めたのが夢だったかのように、何食わぬ顔で日常が戻ってきた。


昨晩ホテルに着いたのは22時半を過ぎていただろうか。1階のバーのようなペースには年配のグループがいて、ボードゲームを楽しんでいるようだった。オランダはボードゲームが盛んだ。老若男女、集まればボードゲームをするようで、カフェやレストランにもたくさんのゲームが置いてあることが多い。バーの一角のテーブルにもボードゲームが積み重ねてあった。こんなスペースがあるのであれば友人ともここで話をすれば良かったかなとも思ったが、フローニンゲン大学の図書館のスターバックスやフローニンゲンの美しい駅舎内でひたすら話をするというのも、話好きな友人と私ならではの良い思い出である。

土曜日の昼間はあたたかかったが夜はさすがに気温が下がり、シャワーのお湯がとても気持ちよく感じた。ホテルのシャワーの水圧が低く心もとなさを感じたが、次第に身体はあたたまり、その後、寒さに震えることもなく眠りに就くことができた。

明け方、何度か目覚め、分厚い遮光カーテンの微かな隙間から光が入ってきたのでカーテンを開けると、真正面に大きな教会があった。昨晩は真っ暗で気づかなかったがどうやらとても眺めの良い部屋に宿泊していたようだ。朝焼けで染まる空が美しく、枕元に置いたスマートフォンで写真を撮ろうかと思ったが、ぼんやりとした意識の中、また眠りに落ちた。

何か印象的な夢を見ていたように思うが、一日経った今、もうすっかり忘れている。

忘れないうちに今日見た夢を書き留めておこう。(と言ってもそちらもすでに忘れ始めているのだが。)今日の夢の登場人物の多くは小学校の同級生だったように思う。中でも、幼稚園からずっと同じクラスだった男の子と多く話をしたが、夢の中では大学生か、社会人になったばかりくらいの風貌だった。(小学校卒業以来一度も会っていないので、実際にその頃どんな様子だったかは分からない。)

夢の中の私は自己研鑽を続けることのないコーチが多いことに嘆いており、それについて元同級生の男の子に熱く語っていたということだけ、今は記憶を捕まえることができる。思い出せばもっと出てきそうなものだが、このあと、週に3回持っている、仲間との対話の時間のため、発声をしたい。フローニンゲンとルーワーデンでの時間についてはまた綴っていきたい。2020.9.7 Mon 7:22 Den Haag

839. 他者と関わる自分の意識はどこに向いているか

21時すぎ、数週間前ならまだ外が明るい時刻だが、今はすっかり真っ暗になっている。眠気もすでにやってきており、あくびも出るし、体温が上がっていることも感じる。

一昨日と昨日のフローニンゲンへの旅のことで言葉にしておきたいことはたくさんあるが、それについてはもう少し明晰な感覚と思考のときに取り組みたい。

この時間は今日取り組んだことについて書き留めておこう。今日は、先日、日本のトランスパーソナル学会のウェブサイトで紹介されているのを見つけた「関係療法と意識のテクノロジー」という講座の音声ファイルを聴き始めた。

聴いたのは、まだほんの一部だけだがその中で湧いてきた疑問は「カウンセリングにおいてはセラピストとクライアントの関係性、さらにはセラピスト自身の心の内も大きくカウンセリングに影響を与えると認識されているのに、コーチングではコーチ自身の心の内よりもスキルにばかり注目が集まるのはなぜだろう」ということだ。

「クライアントが在りたい姿を実現するための関わり」というざっくりとしたコーチングの定義を前提にすると、そのために必要なスキルや考え方を体得していればいいというイメージも湧くが、実はコーチングを学び始める時点では、「自分自身への欲求や願望が他者に投影されている」ということが多く起こっている。私自身もそうであったし、そのこと自体は悪いことではないのだが、それに気づかないでいると、「クライアントの在りたい姿」に「自分自身が在りたい姿」もしくは「あるべきだと思っている姿」を無意識に重ね合わせ、結果としてクライアントの可能性が発揮されることを阻害をするということが起こる。

例えば、「子どもを持つ親向けのコーチング講座」というものもあるが、そこで本質的に必要なのは親の側が、「子どもに押し付けようとしている価値観はないか」ということに気づくこと、「自分自身は何を実現したいのか」ということに気づくことだろう。

北欧諸国やオランダ等を真似て「子どもにコーチ的な関わりをしましょう」という考えも日本で広がりつつあるようだが、それらの国が子どもにコーチ的な関わりをして子どもがのびのびと育っていくのは、親の側が自分自身の欲求や望みを理解し、それを大切にすることができているからこそなのだ。

自分に対する願い、相手に対する願いというのはどこからともなく滲み出ていく。それを「愛」だと捉える包容力が受け取る側にあればいいが、子どもはそうもいかない。願いの方向性を持った問いというのは、時に人の後押しになることもあれば、時に人を窮屈にもさせる。問いを発する側にまだ自分の願いに対する自覚があれば良いものの、それがなければ相手をコントロールしようとする力にもなり兼ねない。

「相手を自分が意図する方向に動かすもの」だという前提の上で使われる、もしくは無意識にそんな前提があって使われるコミュニケーションやコーチング・問いは、人と人との間に生まれるものを豊かで創造的なものにはしてくれないだろう。

自分自身の願いや想いと向き合うこと。それを前提に率直にコミュニケーションを交わすこと。そういったことが、スキルよりも大事なコーチの在り方ではないだろうか。

もちろん、率直に、フラットに交わしたと思っていたものが思った以上に相手に影響を与えてしまうということもあるので、「今どのような関わりが必要か」というのは見極める必要があるだろう。しかしその前提として「自分がどういう想いとともに相手を見つめているか」がとても大事になってくるのだ。

それがなければ、コーチングセッションの際に自分の中に起こった感覚が何に紐づいているかということを正確に判断することもできない。カウンセリングでは「逆転移」と呼ばれる、カウンセラーに起こる反応をクライアントの心のうちを知る指針の一つとして活用することもあるようだが、コーチングになぜその考えが用いられないのか、本当に不思議である。


コーチ自身の中に起こることに驚くほど無頓着。というのが私が知る限り、コーチングを学ぶ上で往々にして起こることだ。

これは現在私が、変容の土台となる治癒の部分に関心が向いているというのもあるだろうけれど、それにしても、である。そのあたりはもしかしたら参照する先をもっと英語の書籍に広げていくとまた違った世界が広がっていくかもしれない。

ちょうど今日、近年、日本でも注目されているオランダの教育は、実はその質が下がりつつあるという記事を目にした。日本語で得ることのできる情報は10年くらい前のオランダの教育の話で、実は今は教育の質の低下に危機感を感じた若い親が他国(おそらくは北欧などだろう)に移住をするという流れも出てきているそうだ。

頭にあることを少しでも言葉にしておこうと思って書き出したら思いの外長くなっていた。それだけ関心が強かったり危機感のあるテーマということだろう。8月の間に購入を保留していた読みたい日本語の本は何冊か(何冊も)あるが、それを購入して以降は英語の書籍を読み進めていこうと思う。1年くらい日本語の本や読まず英語漬けになってもいいかもしれない。一方で、日本語の言葉の美しさに触れていたいという想いもある。詩集や古い本は日本語で読み、その他の専門書等は英語というのがいいだろうか。

最後にもう一度触れておきたいのは、特に子どもに対してコーチングを活用することで、「親の期待」とのダブルバインドをさらに大きなものにしてはいけないということだ。親が子どもとともに自分自身に向き合っていく。新たな関係性を一緒につくっていく。そんな取り組みが増えていくことを心から願っている。2020.9.7 Mon 22:07 Den Haag