848. 赤の感覚に包まれて

 

バルコニーに出ると、湿り気と植物と土の香りを含んだ空気に包まれた。欧州に渡ってすぐに暮らしたドイツの静かな街の家を思い出す。あの家も庭に小さな池があり、夏には睡蓮が咲いていた。近くには森があり、数えるほどだけれども森の散歩を楽しんだ。(散歩道があるくらいだから、天然の森ではないだろうけれど。)

中庭の池の睡蓮はまだ咲いているだろうか。それとももう睡蓮の季節は終わっただろうか。朝はこうして庭を眺めているけれど日中はそんな時間を過ごすことなく一日が過ぎていっていることに気づく。

昨日は昼過ぎのセッションの前に久しぶりに絵を描いた。日本から届けてもらったフォーカシングを活用したアートセラピーの手法の本に書いてある内容を元に絵を描いてみようと思っていたのだが、アートセラピーに触れるところまで読書が進むのを待たずして、表現の欲求が強くなった。これまではシュタイナー教育で用いられるフォルメン画のように線が変化していく絵を描いていたが、昨日は面に色を広げたくなった。

パステルのセットを出す前から赤系統の色を使いたいという感覚があった。これまで描いたものを全て覚えているわけではないが、おそらく圧倒的に青系統の色を使うことが多かっただろう。

それから30分ほどだっただろうか。右手で線を引き、左手で色を広げるということを無心で繰り返していった。色に触れながら、自分の中に情熱やあたたかさだけではなく、怒りのようなものもあったことに気づいた。誰か特定の人に対する怒りというよりは、慣習がつくってきた今の社会の在りように関する怒りのようなものだ。

色を重ねるうちに、それらがだんだんと包まれていった。

認識されず、行き場を失っていたものが姿を現し、抱擁され、再び心の中に還っていった。そんなプロセスだったように思う。

感覚として生まれたものをキャッチすることやそれを表現することをもっと解像度高く行いたいと思った。パステルでの絵の描き方について多少テクニックのようなものを取り入れているのもいいかもしれない。感覚が表現を後押しするし、表現ができればさらなる感覚が生まれてくる。

これは先日ダンスについて考えたときに出てきた考えだが、絵についても同様のことが言えるだろう。

セッションの後や一日の終わりに、ときには一日の始まりに、絵を描いて過ごしていったら、自分の中でまた何かが変化していくだろうか。

今、知的理解を深めることで取り組みたいこともたくさんあるが、なぜそんなにそれを急ぐのだろうと思うこともある。しかし、思いっきり頭を働かせることを「今日存分にやってしまいたい」と思うことがあるのも事実だ。そんなとき私の中では、言葉と言葉でないものの境界線は薄れているのかもしれない。見た目は言語的・説明的な取り組みであっても、自分の中ではアートに近い領域として向き合っているのかもしれない。

空が明るくなり、西の空に輝いていた三日月は白い線となり、少し高い位置に昇った。影になっている側の縁がうっすらと見えていたが今はもう見えない。

今日も言葉にならないものたちに静かに耳を澄ましていく。2020.9.14 Mon 7:24 Den Haag

849. ICFコア・コンピテンシーの更新と意識の発達

 

オレンジの光が中庭に差し込んでいる。ゆらゆらと葡萄の蔓が揺れる。

今日もたくさんの言葉に出会った濃密な一日だった。いつも以上にそう思うのは久しぶりに英語を浴びる時間を作ったからだろうか。今のところ私の頭の中では英語が一度日本語に処理され、理解されるので一時的に頭の中にある言葉の総量は倍になる。言葉と言っても英語は記号に近い。身体感覚を伴わない、思考的な意味が付与された記号だ。

一時的に頭はいっぱいになるが、これを繰り返していると言語を扱う容量自体がまた増えていくのだろう。

先日フローニンゲンに住む友人と話し、英語圏(とオランダを呼んでいいのだろうか)に暮らしているからこそ取り組めることというのを改めて感じ、毎日、夕食の前の2時間ほどは英語の書籍を呼んだり動画を見たりする時間に充てようと思っている。

今のところの目標は来年中に英語で開催されるコーチングのトレーニングに参加することだ。ICF(国際コーチング連盟)の資格の継続のためには3年間で40時間のトレーニングに参加をする必要がある。トレーニングとして認定される講座は各国で開かれているため、せっかくならば40時間のうち半分くらいは英語の講座に参加をしたい。先日、ICFの更新されたコア・コンピテンシーを読み込んだが、日本のコーチングスクールの講座の多くは旧版のコア・コンピテンシーに準拠したものであり(ICFがその認定を行ってきため当然のことなのだが)特に新しく追加された、同時にとても重要なテーマである「コーチングマインドを体現する」については扱っている講座はまだ少ないのではないかと思う。それに対して英語圏の講座の方が多様な講座がすでに開催されているのではないかという期待がある。

先ほど、ジャガイモを切りながら、今回のコア・コンピテンシー更新における大きな変更箇所がどのような背景から起こったのかということを考えていた。更新されたのはコーチングの目的に関係する箇所だ。「Facilitating Leaning and Results(学びと結果を促進する)」が「Cultivating Leaning and Growth(学びと成長を育む)へ。改めてこれは興味深い変化だ。これはインテグラル理論で言うところの、オレンジ(科学的達成)からグリーン(相対主義的段階)へと価値の重心が移っているのではないだろうか。

この更新の背景として3つの可能性が思い浮かんだ。
一つ目は約25年前のコア・コンピテンシー作成時にモデルの参考となったのが、「学びと結果を促進する」役割を担った人たちだったという可能性。「コーチングは発明ではなく発見である」と言われているが、コーチングは、もともと他者の育成を支援するのが上手な人がやっていることをモデル化したところから始まっている。そのときに対象となった人の多くがスポーツのコーチなど「目標達成を支援していた人たち」であったため、「目標達成」がコーチングの目的として掲げられたということは大いに考えられるだろう。

二つ目もそれに近いが、世の中として目標達成を目指す人が多かったという可能性もある。目標達成から、自己成長へ。25年で人類の意識の重心が大きく動いたというのは言い過ぎかもしれないが、少なくともコーチングを活用する人が多様になり、その中には目標達成に重きを置く人だけでなく自己成長をテーマとする人が増えているのは事実だろう。

そして三つ目は、コア・コンピテンシーを作成した人の意識の重心が変化をしたという可能性。ICFの動画内では約25年前のコア・コンピテンシー作成時は8人の人が集まって議論をしたという話が出てきたように思う。もしそのときすでに目標達成だけでなく自己成長をテーマとしたコーチングが多く行われていたとしても、基準を作成する人たちがその違いを認識することができなければ全てのコーチングは一括りに「目標達成」とまとめられただろう。

これらのいずれか、もしくはいくつか、もしくは全てが重なっていたという可能性も大いに考えられる。

三つ目の可能性から分かるように、基準を作る人の意識段階というのは結果として多くの人たちに影響を与えることになる。これは本当に注意をすべき点だろう。基準を作る人たちが相対的に自分たちの意識の段階や価値判断の基準を捉えることができない場合、「自分たちの考えることが絶対的に正しい答えである」「自分たちの見えているものが全てである」というという前提のもと、それにそぐわないものが「誤ったもの」として排除されるといことが起こる。「全ての考えはそれぞれの見方において正しい」という考え方をしている場合、それはそれで基準を決めることが難しくもなるのだが、そこで取りこぼされるものはまだ少ないかもしれない。

「意識の発達は必ずしも目指すものではない」という考え方もあるが、少なくとも何かの基準を作る立場に身を置く人はせめて自分の意識の重心がどこに置かれているかに意識を向ける必要がるだろう。そうでないと多くの人の可能性の芽を摘んでしまうということも起こりかねないのだ。

昨日ICFのコア・コンピテンシーについて書いたときに触れていたかどうか定かでないが、コーチングの目的の重心が目標達成から自己成長に移ったからと言って、誰しもが自己成長にいきなり取り組みましょうという話ではないということも注意すべき点だ。「目標達成が目的にならない人もいるよ」というくらいに捉えておくのが良いだろう。目標達成を思いっきり向き合い、味わったからこそ、向き合うものが変化していくのだ。それを無理やり「自己成長に取り組みましょう」などとやってしまうと、それこそその人の自然な成長の妨げとなってしまう可能性も大いにある。

こうして考えると私は随分と真面目にコーチングのことを考えているのだなあと改めて感じる。ICFの更新されたコア・コンピテンシーからは、「質問をすることがコーチングではない」ということも読み取ることができる。これは、様々なツールの開発によってコーチングの方法自体が変わってきたという明確な意図があるとICFも発表している。質問だけがコーチングではないということには大いに共感しているが、そんな中でも人と人とが交わす対話にはやはり何か大きな意味や力があるのではないかと感じている。

もしかすると今後はAIのようなものがコーチとしての認定を受ける日も来るかもしれない。余計なことをしゃべって自分の感情や欲求にとらわれる人間よりも、余計なことをしゃべらず自分の感情や欲求にとらわれることのないAIの方がよっぽどいいと思う人もいるだろう。

それでもやはり、生身の人間が対話を交わすことの意味はなくならず、むしろ際立ってくるのではないかと思う。対話とは何かについてはこれからもずっと向き合い、深めていくことになるだろう。2020.9.14 Mon 19:50 Den Haag