834. 「見えるもの」が阻むもの

書斎の机の前に置いたバランスボールの上に座ると、間も無く、パタパタという音が聞こえた。顔を上げると窓ガラスに透明な筋が着いていっている。

そんな、つい数分前のことを書きがなら、「私たちは多くのことを身体全体の感覚ではなく、その中のごく一部の感覚を使って擬似的に体験しているのだ」ということが思い浮かんだ。「雨が降ってきた」ということを、視覚や聴覚以外でどのくらい体感したことがあるだろうか。他の誰にも伝えることができない体験として、どのくらい体感したことがあるだろうか。

「共感」という言葉がある。

「他人の意見や感情などにその通りだと感じること」という意味だという。

共感は確かに大事だ。「そう思っているんだな」「そんなことを感じるんだな」と受け取ることは、相手に安心感を与え、信頼関係を築くことにつながっていくし、悲しいことや悲惨な事の起こらない平和な社会をつくっていくことの大きな後押しになるだろう。

そんな中、他者へ共感を向ける前に、自分自身が感じていることにどれだけ気づくことができているだろうか。そもそもどれだけ感じることができているだろうか。

とくに、パソコンの画面ごしに様々なことができるようになり、さらに情報技術に関するテクノロジーが発展した今、私たちの使う感覚が視覚に偏っているのではないかということを強く感じている。

これはまだ漠然とした懸念だが、視覚から情報を得ることに偏った環境においては意識の成長・発達がある一定以上起こらないのではないかということを感じている。私の経験上、他者依存の強い人は画像が見えないコミュニケーションに不安を感じる傾向にある。終始、相手の反応が見えていないと落ち着かないのだ。画像が見えなくなると、聞き間違いが多くなる。おそらく、「内面化された他者」の声が大きくなるのだろう。今この瞬間に時間を共にしている相手が発していることではなく、これまでの経験の積み重ねによってできた「他者」もしくは「社会」などの声が聞こえてくるようになるのだ。

これは極端な例だが、「見えるもの」がさらに「見えるものへの信奉」を大きくするのではないだろうかと思うのだ。見えるものに囲まれながも見えないものを感じようとする人もいるし、土台となる個人の状態やこれまでの経験もあるだろから、現在の環境だけが影響を与えているとは一概には言えない。

しかし、私たちが小さい頃、多様な方法で多様な感性や感覚を発揮していたように、大人になっても様々な種類のコミュニケーション手段や表現方法があってもいいのではないか。

こうして書いてみると、私の中では「見る」「聞く」と、「触れる」「嗅ぐ」「味わう」はかなり質感が異なる感覚だということに気づく。

少し前に、知人と「焚き火の映像をしながら話をする」ということをやってみた。焚き火を囲みながら話をする感覚を再現できないかと思ったのだ。アイディアとして面白いのではと思ったが、結果は明らかだった。

どんなに高画質で、周囲の風や虫の声が聞こえても、「焚き火の再現」にはならなかった。焚き火を囲むことの良さは、あの、木の燃える匂いや炎の熱さを感じることにあったのだ。それが「時間を共にする」ということだったのだ。

これはおそらく、私だけの個人的な感覚ではないだろう。

オンラインでは視覚と聴覚以外の感覚を発揮できない、もしくは感覚を共有できないかというとそうではないと思っている。感情とともに現れる(もしくは感情を認識する手前で現れる)内臓感覚のようなものは、相手のいる世界に自分を開きながら身体感覚に深く意識を向ければ感じることができるだろう。

もはや「リアルかオンラインか」という二元論で語ること、もしくは、オンラインでリアルな場でやっていたことを再現しようとすることは不毛なことであり、それぞれの場の良さやそれぞれの場でできることをどう活用していこうかと考えることが今後ますます必要になってくるのではないかと思うが、そんな中でも、リーダーという役割を担う人、もしくは自分自身の人生にオーナーシップを持って進んでいきたい人は、自分の内臓感覚を繊細に捉えることが、役割や人生を全うする後押しになるのではないかと思う。2020.9.3 Thu 7:51 Den Haag

835. 汲み上げた言葉たち、マネージャーの仕事

風に揺れる庭の木々を眺めている。

日本には今台風が来ているという。きっともっともっと強い雨風が吹いているのだろう。

今日は久しぶりに、自分の中から湧き出てくる言葉にじっくりと向き合った。依頼を受けて綴る言葉ではあるものの、そうでないものと同様、まずは自分自身の深い体験とつながり、言葉を汲み上げていく。

「汲み上げていく」という表現をしてみて、言葉が現れてくるときには色々な形があるということに気づく。「降ってくる」こともあれば「降りてくる」こともあれば、「浮き上がってくる」「湧き上がってくる」ということもある。

その中で今、「汲み上げていく」という表現になったのは、「ある特定のテーマについて、自分の体験を意図的に探索した」という背景が大きいだろう。振り返ったのは数ヶ月間に渡る対話の時間だが、もっともっと長い時間を旅したようにも感じる。

それはそうだろう。セッションではいつもクライアントと共に時空を旅している。未来へ行くこともあれば過去にいくこともある。山に登ることもあれば海に潜ることもある。「何を話したか」「何が話されたか」ではなく、「どんな旅をしたか」が、私がセッションを振り返るときの問いの一つだ。

一緒にプロジェクトに取り組むチームの仲間とも久しぶりに対話の時間を持ったが、これがまた、時空を超えた旅だった。

今振り返って感じるのは、それぞれの人にはそれぞれのナラティブ、物語があるということだ。話を聞くのではない。そこにあるナラティブを聞く。ナラティブを話す。ナラティブに問いかける。ナラティブに語りかける。そうして、全く違った時間を過ごす仲間たちは、新たな物語を持つことになる。

これは一度やったからと言って終わりではない。何度も何度も繰り返すのだ。それでやっと、志を共にする仲間との取り組みが形になり、そのムーブメントが日本中に広がっていくことになるだろう。

こうして考えると、やはり日本の企業や組織には圧倒的に対話が不足しているように思う。大量に物事をこなすことに追われて、人と向き合う時間はとても限られている。そんな中、AIを使ったコミュニケーションをサポートするツール等は多数出てきているが、もし、人間が人間と向き合う力を育てなかったとしたら組織や社会にはどんな未来がやってくるのだろうか。

オランダの大手銀行の一つ、AMB AMRO では2年前に260人いたマネージャーを廃止し、チームコーチとスキルコーチを計50人配置したという。「他の仕事でも忙しい合間をぬって人と向き合う」のではなく、「人と向き合うことそのもの」を役割にする。これは今後の日本企業においても必要になってくることだろう。

リモートワークが定常化する中で私たちが迫られているのは、「働き方」というHowの部分ではなく、「何を仕事とするか」ということであり、さらには「何のために仕事をするのか」という大元を見直すことなのだ。

8月に抱えていた仕事が、ようやく今日で全てひと段落する。そうこうしているうちに明後日はもう、友人を訪ねてフローニンゲンまで行く日だ。今日考えたことが、明後日にはまた大きく更新されているだろう。天気が少しでも良いことを願うばかりだが、よくよく考えてみると友人と会うときはいつもひたすら話をしているので、天気は本当におまけのようなものだ。心の中ではすでに旅が始まっている。2020.9.3 Thu 19:18 Den Haag