842. 夜明けとともに

バルコニーに出ると、湿り気を含んだ空気がそこにあった。「今日は雨が降るかもしれない」ということが頭をよぎる。まだ暗い中、四、五軒西側の家のせりだしたバルコニーの部分にゆらゆらと揺れる灯り二つ。ランプが置かれているようだ。この時間からバルコニーで寛いでいたのかもしれない。

パソコンを開く前に、ふと、一日三時間ほど、英語漬けになる時間を毎日つくってみようかと思った。毎日触れることで脳が英語に慣れていく。日本を離れているのであれば(さらに英語が日常的に使われる国であれば)なおさら取り組みやすいものなのだが、全ての仕事を日本語で行なっているということもあり欧州に来て三年間半ほどの間で英語力が向上したかというとそうでもないだろう。それでも、昨日YouTubeで英語の動画を見たところ思ったよりも内容が頭に入ってきた(入ってきたというよりも内容が頭に浮かんできたという感覚の方が近い)ので、日々積み重ねていけば数ヶ月後でも大きな違いが生まれているはずだ。


日本語と同じく、英語や他国の言葉を「情緒を含んだ言葉」として味わえるようになりたい。専門的な知識を得るために加えてそんな欲求もあることを考えると、英語の詩などにも触れてみたいという考えが湧いてきた。頭で理解するだけでなく、身体全体で味わう。それは言語に限らず、学びを深めたいものごとに対する大事な向き合い方だろう。

今日はこのあと、協働している仲間との対話の時間を持つ。いつもなら、朝ということもあり、またカジュアルな対話の時間ということもあり直前に発声をするくらいなのだが、今日は15分ほど瞑想をして時間に臨みたい。今日はその後、日記を書いたり、書籍を読む時間がたっぷりとある。先日、マイコーチの一人とのセッションの際に体感した世界を絵にするということにも取り組みたい。

白みがかった空を見上げ、ふと「どんなときでも夜明けはやってくる」と思っていた日々があったことを思い出す。今は、いつかくる夜明けを待ち望むような感覚はなくなっている。「いつのまにか夜は明けていたよ」かつての自分にそんな風に声をかけたい。2020.9.9 Wed 7:13 Den Haag

843. 湧き上がる内なるものと踊り生きる


仲間との対話の時間を過ごし、友人の日記を読み、一週間前に自分が書いた日記を読み返し、ウェブサイトにアップをした。

心の中には静けさがある。

フローニンゲンに住む友人の日記には先週末私がフローニンゲンを訪れたときのことが書かれており、共に過ごした時間、交わした対話を改めてとても尊いものに感じた。生きた人間と言葉を交わす(「生きた人間」と書くとむしろ何か機械的になってしまうのだが)ことは、まだ見ぬ景色を見ること、初めて耳にする音楽に涙すること、魂の躍動のようなものを感じることにも近い。たくさんの小さな種が心の中に蒔かれそれがすでに、どんどんと芽を出している。話されたことというよりも、そこから芽吹いたことを、さらに、成長していった植物が茂る景色を、これからゆっくりと言葉にしていきたい。

そんな中でも、友人の日記を読み、ダンスについては今、言葉にされたがっているものがあることを感じる。

内なる欲求、湧き上がるような動きを感じることをする先で、「もっとこれを表現できないだろうか」と思ったときに技術を習得すれば良いという話を、ダンスを題材に交わした。そのときに私は、バレエで教わるちょっとした手先の表現を例に出したが、改めて意識して手先や上半身を動かしてみると面白いことに気づく。柔らかさや美しさを表現できる手の形を意識して動かしていると、「もっともっと柔らかさや美しさを表現したい」という内なる欲求がさらに湧き上がってくるのだ。これはプロセスワークにも通ずるものがあるだろう。自分の中に生まれている小さな動きをどんどんと大きく表現していってみるとそこには言葉を超えた世界が広がっていく。身体はもはや、動かす対象ではなく、意識はもはや、動きを捉えるものではなく、自分自身の全体が動きそのものになっていく。

そんな動きを知った上で踊る「決まった型」というのは、もはやその型の中に自分が閉じ込められるような型ではない。自分の中にある一部として型を踊り、同時に型から滲み出てくる躍動感やエネルギーがある。

私が知る限り、バレエやダンスでもとても小さい頃は音楽に合わせて身体から自然に出てくる動きを楽しむことに取り組むものの、比較的早い段階から型に合わせることに取り組むことが多いように思う。これはダンスやバレエに限ったことではない。日本では随分と早い時期から「決まったものに合わせる」ということが行われているのではないだろうか。

その影響は、何十年も後になってやってくる。本来なら慣習を味わい切って、自分自身の内側から出てくるものを表現していこうとなってもおかしくないタイミングで「内なるもの」が何か分からないのだ。

そして「内なるもの」と向き合うことを曖昧にしたまま、今度は「多様性を受け入れましょう」という新たな慣習に従うことになる。本来なら意識は自己と他者の軸が交互に発達していくが、自己に立脚する部分が極めて脆弱なまま、他者軸の側でのみ発達を後押しするような、そんな圧力が現在の日本社会にはあるのではないか。

そんな状態から、一人一人の持つ全体性を発揮することにつながることを後押しするのが、ダンスや音楽、絵画などのアートなのではないかと思う。

横浜に住んでいた祖父は歌を歌うこと、絵を描くこと、踊ることが好きで、よく歌い、描き、踊っていた。今思えば彼の中でその境目はなく、全てが内側から溢れてきていたものだったのだろうと思う。晩年、福岡で入った老人ホームは演奏会などがよく開かれていたようで、演奏を聞きながら嬉しそうに目を細める祖父の写真が残っている。言葉がハッキリしなくなってからも、ダンスを踊るような手の動きをしていた。内なるものを表現し続けていたのだろう。身体や感覚が最後に残るものであり、それらとつながり続けることができていたらきっと最期まで幸せに生きることができるのだろうと、祖父の様子を思い出しながら感じている。

そういえば、ハーグにあるネーデルランドダンスシアター(NDT)が917日、18日、19日のオランダ時間の夜8時から、オンラインで公演の配信を行うそうだ。

今年の2月にハーグで開かれたフィギアススケートの大会を観に行った帰り、トラムで一人の日本人の女性と一緒になった。私の母よりは随分と若いその女性は、ハーグに住んでいる娘さんがネーデルランドダンスシアターに所属しているダンサーなのだということを教えてくれた。

劇場での鑑賞券は既に売り切れているようだが、15ユーロのオンラインでの鑑賞チケットを購入して公演を観ようと思っている。オンラインも良いのだが、やはりいつか生の公演を観に行ければと思う。  2020.9.9 Wed 9:26 Den Haag