831. 8月の終わりに届いた知らせ、聞こえてくる音の質の変化


白湯を飲み終わり、バルコニーに出て空を見上げた。上空をカモメが、北から南へ向かっていく。静けさの中に心が溶けていく。カモメは複数で飛ぶときにいつも鳴き声を上げているのだと思っていたことに気づく。

今度は西から東に、飛行機が飛んでいく。こちらはゴーという音が聞こえる。あの高さを飛んでいるということは、スキポール空港に降り立つのだろう。

8月最終日である昨日、9月の末にオランダに行こうかという知らせがパートナーから届いた。半年以上日本で行ってきた種蒔きが、ひと段落しようとしているのだろう。遠く離れたオランダにいる私からは、種を蒔いている様子も、根っこが伸びている様子も見えない。しかし、彼が色々なチャレンジを続けてきたのだということは分かる。

見えないものを信じることは難しい。彼に最後に会ったのはもう半年以上前のことだが、それからの時間は、一歩一歩あゆみを進める人と共にあるということがどういうことなのか、他者と共にあるということがどういうことなのかを改めて学ぶ期間だったように思う。

あゆみを進めるのは、他者だけでない。自分自身が、今ある環境の中であゆみを進める。ときに留まり、時に戻りながらも自分自身と向き合い続ける。その時間の積み重ねが、新たな出会いをもたらす。お互いにもはや「知った人」ではない。パートナーに限らず(関わる人は皆広義における「パートナー」だと思っているのだが)そんな関係であれることは、私にとって喜ばしいことだ。

今朝はシャワーを浴びながら、セッションやミーティングの際の音質のことが頭をよぎった。欧州に来て以来全ての仕事をオンラインで行なっているが、ここのところ、セッションやミーティングの際に、これまで感じたことがない音の質を感じるようになった。ものすごく極端に言うと、鋭く、耳を刺すような音。全てのケースを確認したわけではないが、知る限りではそのとき、相手は比較的しっかりとしたヘッドセットを付けている。おそらくは音質が「良い」と謳われているものだろう。しかし、耳の慣れの問題なのか、はたまた別の問題なのかは分からないが、その鋭い音は頭の中にキンキンと響いてくる。シャワーを浴びながら浮かんできたのは、Zoomでもよく使われるようになったバーチャル背景だ。物理的な肉体の形で切り取ってデジタル画像と重ね合わせられた人は、もはやデジタル画像の一部にも思える。見えるところだけが切り取られているときの不自然な感覚が、人の声が鋭く聞こえるときにも生まれている。聞き取ることのできる「声」だけを切り取っているような感じなのだ。

デジタルな情報になっている時点で、本来人が発している声に含まれている多くものものが失われてしまっているようにも思うが、これまでの経験を通じてそういったものを体内で復元する機能が備わったのではないかと思う。ただしそれは「ある一定の周波数において」のような感じで、ベースとなる周波数が変わった場合、またそこにツマミを合わせていくような必要があるだろう。ここ数ヶ月で、セッションをする相手の環境もさらに多様になってきた。我が家もインターネット回線はそう強くない方だと思うが、相手の環境によって、音のつながりや質感は大きく変化する。そしてそれは対話の質にも影響を与える。特に私は話の内容や構造だけでなく、そこにある言葉や言葉になっていないものの質感に感覚を向けているため、対話の環境というのがとても重要になってくるのだ。

空間を共にするのであれば自分でその空間をととのえることができるが、オンラインとなるとそうはいかない。話の内容だけを交わすような対話は、無駄とは言わないが、少なくとも私が携わる領域ではないだろう。この考えは少々ストイックにも思えるが、この考えはオランダに身を置き、対話を通して人と関わるという、与えられた天命のようなものを全うしたいという想いともつながっている。

今日も世界は、音にならない音で溢れている。
あたらしい月も、言葉と言葉のあいだにあるものに、静かに向き合い続けたい。2020.9.1 Tue 7:33 Den Haag

832. 奇跡を願って

 

つい二週間ほど前まで「暑い暑い」と書いていたのがウソのようだ。今日は寒い。とても寒い。日照時間もどんどんと変化しているが、それにしても、去年のこの時期はこんなに寒かっただろうか。

今日は久しぶりに大人数の参加するオンラインでのワークショップにオブザーブという形で参加した。数ヶ月に渡るプロジェクトも後半に突入してきたが、参加者の方の取り組みや発言には毎回深い感動を感じている。

新しい環境の中、一人一人が必死に取り組んでいる。それに対して私には何ができるだろうかといつも考える。必要なリソースは全て、一人一人の中、そして人と人のあいだにある。それに光を当て、耳を傾ける。

自分自身の専門領域というものはあるが、それを手放し、一緒にその人自身を探究することができたとき、その人の人生にとってかけがえのない宝石のようなものを見つけることができるのだ。深めれば深めるほど、無知である自分でありたい。

一言の重み。一言の力。

心の奥底にある小さな炎がふっと大きくなるような、そんな言葉を届ける自分でありたい。

今日1日を振り返って改めて感じるのは、世界には「聴く人」が不足しているということだ。本質はそこではないかもしれない。自分の外側にある情報や、見えない「空気」のようなものには人は嫌というほど意識を向けている。でも、聴いていないのだ。見ていないのだ。今この瞬間に向き合う目の前の人のことを。今この瞬間に生まれてくる自分自身のことを。

指数関数的に増える情報を超えるほどに「聴く人」を増やすことは難しいだろう。そうではなく、一人一人が、自分の内なる声を聴くところから始めるのだ。少しでもいい、1日、数分間でもいい。「誰かに聴いてほしいこと」を自分に問いかけてみるだけでもいい。こんな風に書くことでもいい。

聴いてくれる人がいるなら、話してみるといい。自分の中にどれだけ、言葉にならない言葉があったかに気づくだろう。言葉では表現できないものがあるかに気づくだろう。そうして初めて、人は他者の話を聴いてみようと思えるのではないだろうか。

どれだけ話しても尽きることはない。私たちは日毎に生まれ、死んでいく。目覚めたときに、「ここは全く知らない世界だ」と思えたなら、出会うひとりひとりの話を聴くことができるのだろうか。内なる声を聴くことができるだろうか。

散漫になりつつある思考の中、「聴く」というギフトで世界をいっぱいにするための、コペルニクス転回のような、奇跡が起こらないかと考えている。

奇跡は起こらずとも、諦めるわけにはいかない。2020.9.1 Tue 18:20 Den Haag