824. お湯のあたたかさを保つために必要なことと組織開発

窓の外に広がった青空を見て、ほっとしている。6時頃目覚めたときにはまだ外は暗くて「いよいよこの季節がやってきたのか」と思った。

つい二週間ほど前は毎日「暑い」ということばかりを日記に書いていたと思うが、今度は「暗い」「寒い」ばかりになるだろうか。半袖やノースリーブのワンピースにカーディガンを羽織ってもまだ寒く、もうシャツは長袖となり、さらにその上に一枚羽織りものをしている。数日前にフローニンゲンに住む友人が日記の中で現在の気温は日本の11月ごろに相当するというようなことを書いていたが、調べてみると確かにそうで、「ということはもう冬物の上着を羽織ってもおかしくはないだろうか」などということを考えたりもした。実際、自転車に乗っている人には日本では秋以降に見られるジャケットのようなものを来ている人もいる。(相変わらず薄着の人もいるのだが。)

身体についてはここからどんどんと変化が起こっていくだろう。おそらく女性特有の変化や変動なども大いにあるのだと想像する。食生活や運動で補うことはもちろんだが、そもそももっと身体のことを知る必要があるかもしれない。たとえば40代というのは「これまでとは全く違う国で暮らす」というくらい違うのかもしれない。そう思うと、身を置く場所は変わらなくても、日々の暮らしが旅のようにも思えてくる。まだ知らない自分と出会い続ける。そんな風に旅を楽しむことができるように、揺らぎを前提としたスケジューリングにするのが望ましいだろう。「寝る間を惜しんで働く」というのは、30代前半くらいまでできるライフスタイルだったのだというのが今になって分かるし、そんな風にして働いて、身体を壊すという経験をして良かったとも思う。当時はまだそれでも持ち直すことができたが、今同じようなことをしたら回復することも大変だろう。

今日は朝、湯を沸かそうとしたらケトルでは上手くIHが作動しなかった。ケトルの底面の大きさがIHの加熱機能がある部分よりもひと回り小さいためだろうかとも思うが、それでも昨日まではIHにケトルをのせて湯を沸かすことができたのでなぜ今日になってそれができなかというのが不思議でならない。

首をかしげたところでどうにもならないので、小さな鍋に水を入れ、湯を沸かすことにした。沸いた湯を、柄杓ですくって小さな煎茶椀に注ぐ。久しぶりに柄杓を使ったが、日本にいた最後の年は一年以上、ほぼ毎日お茶を淹れていたためか、柄杓の使い方を身体が覚えており、考えるより先に手が動いた。身体が拡張する。そんな感覚があった。

それでも小さな煎茶椀に湯を注ぐ途中で少し湯がこぼれ、その様子を見て自分の心がまだ定まりきれていないことを感じた。

こうして思い返すと、改めてお茶を淹れるというのは心を知るのにとても良い時間だと感じる。知るとともに、自然に鎮まってゆく。できれば寒い日はいつも御釜に湯を沸かしておいて、1日に何度か静かにお茶を淹れたい。さらに炭で御釜をあたためることができたらこれほど美しい時間はないだろう。

ゆっくりと沸かした湯は冷めにくいというのは、中国茶の先生に習ってからしばしば口にしていることだが、最近電気コンロが壊れ、IHで湯を沸かすようになって感じるのは、「熱する側があたたまっている」というのも、熱せられた側のあたたかさが続くために重要だということだ。

例えば電気コンロは、電気コンロそのものがあたたまりケトルとその中にある湯をあたためる。そしてコンロのスイッチを切ってもコンロはかなりの時間、あたたかさが続く。御釜も同様で、中に入っている水をあたためるプロセスで、まず御釜があたたまる。だから、沸いた湯のあたたかさが続く。しかしIHの場合は、表面が多少あたたかくなるがあっという間に冷めていく。そうすると、沸いた湯もあっという間に冷めていくのだ。

これは当たり前と言えば当たり前なのだが、企業や組織で何かを取り組もうというときにも同じようなことが起こっているように思う。上司が部下にコーチングをしましょうという取り組みでは、「部下の主体性を上げる」ということが目的になっていたりするが、上司の方があたたまっていないのだ。肝心なのは、実は上司の側である。今の仕事の中で何か実現したいことがある。そして仲間と共にそれを実現したいと思っている。もしくは、他者が持っている力を発揮することを後押ししたいと思っている。そんな想いがあってこそ、他者をあたためることができるのであって、表面的なスキルだけ学んで他者と関わることは、電気的な仕組みとして水をあたためることはできるものの、スイッチを切ればあっという間に沸いた湯が冷めてしまうIHと変わらないだろう。

企業も、企業にプログラムを提供する側も、「瞬間湯沸かし器」のような取り組みに多くを期待しすぎてないだろうか。湯は、一度沸けば当分冷めることはないなどと思ってはいないだろうか。

翻って他者と関わる自分はどうだろうと考える。時間を共にするそのとき、交わす言葉だけでなく、あたたかさや抱擁とともにあれているだろうか。自分自身の質感を感じ直している。2020.8.28 Fri 8:30 Den Haag

825. 発達と癒し、内なるものを表現するということ

晴れ晴れとした感覚とともに、書斎の小さな机に向かった。ここ半年ほど取り組んでいたことと、1ヶ月ほど取り組んでいたことが今日、一旦落ち着いた。

半年ほど取り組んでいたのはICF(国際コーチ連盟)の資格を申請するための、日本で以前受けたトレーニングの修了認定試験への申請準備だ。日本ではコーチの資格は民間資格のみであり、10年ほど前に受けたトレーニングを通じて取得することのできる最上位の資格は取得していることや、資格制度への反発心などもありICFの資格を取ることにあまり意義を感じていなかったのだが、今後、コーチの育成をしていくにあたってICFの資格を持っていた方が関わったコーチの後押しになる場合があること、また、今回受験する予定のPCC(Professional certified Coach)の資格を取得した場合、ICFのトレーニングとして認定される講座を開く権利を得ることができることが資格取得へ向けた行動を起こす決め手となった。

とは言ってもコーチングスキルを教える講座を開くことに興味があるわけではない。コーチングスキルとしては教えられない、一人一人が自分自身の人間観やコーチ観、対話に関する認識を深めるための取り組みを広げていきたいのだ。少なくとも守破離の破に進むためにはスキルと哲学が両輪となって必要で、さらに離に至るためには、コーチングに限らず、自分自身が持っている固有のレンズについて理解を深め、適切な扱いができることになることが必要だろう。すでにベーシックな資格を得ている人や学びをしている人が自己研鑽をする機会をつくることが、ひいては日本全体の対話の質を変えてゆくことにつながっているのではないかと思っている。

ちょうど今日、オランダ時間の昼頃に、フローニンゲンに住む友人が登壇する対談がオンラインで開催されており、その中で知的理解を深めることと体現することの大切さに関する話が出てきたことを覚えている。

そんな中特に、「段階」と呼ばれるヒエラルキー的なものに対して、私たちは上位の段階について知的な理解を深めるということはするものの、体現や行動をすることは圧倒的に足りないのではないかと感じている。

もう少し厳密に言うと、次の段階に進むために必要な、すでに内包している段階に積み残されたものに向き合う機会を持つことが難しいのではないかということだ。その要因の一つは、積み残しているものを体現することに対する嫌悪感や否定の感覚のようなものが生まれているということがあるだろう。自分の中に「そういうものがある」ということを認めたくなかったり、あるいは気づいてさえいないことも多い。

前へ前へと意識が向かう中で、いわゆる「前向き」なことについては積極的に扱う一方で「後ろを向く」ようなことについては手薄になりがちだということが、様々なステージやタイミングにいる人たちと関わってきた中で、また自分自身の体験からも感じることだ。

ちょうど先日日本からフォーカシングとアートを組み合わせたセラピーの本が到着した。まだ読み始めることはできていないが、現在すでに取り入れているフォーカシングの考え方にアートを組み合わせ、何らかの取り組みとすることで無意識や深部にあるものと向き合い、癒すようなことができないかと思っている。すでに日常生活に何らかの支障をきたすか、それに近い状態の場合はカウンセリングなど他の専門家の扱う領域になるが、その手前の積み残しに対する癒しや浄化は誰しもに必要なのではないかと思う。それをもっと、健全な(隠す必要のない)活動として行うことができたら、ひとりひとりの持つ可能性はもっと開かれるのではないだろうか。もしコーチとしての自分を深めるためのトレーニングにそんなものを組み込むことができたら、コーチも、もっともっと自由になるに違いない。

1ヶ月ほど前からの取り組みであるハーグに住む元英語教諭の知人へのインタビューも今日やっと公開の手前の状態までまとめることができた。インタビューの中では今年5歳になる娘さんの小学校での様子を聞く機会があったが、「個を大事にする」という考え方をベースにしながら「対話の時間を持つ」ということが行われているのがとても興味深いと感じた。おそらくここで言う対話は、多数決で何かを決めたり、良い悪いの判断をする場ではないのだろう。フィンランドの学校では「あなたの中で何が目覚めましたか?」という問いを小さい頃から繰り返し問われるという話も印象に残っている。それを繰り返した上で、高校生くらいになって、「他者に自分の意図することが、客観的な視点でも納得感があるように伝える」ということに徹底的に取り組むのだという。それでも始まりは、「内なるもの」なのだ。

思い返せば幼い頃というのは、自分自身の内側に色々な感覚があって、動物や自然とももっと、もっともっと何かを交わしていたように思う。それが、外から入ってくる「○○すべき」ということにばかり耳を傾けるようになったのはいつの頃からだろう。両親は私の内なるものを大事にしてくれ、それを発揮できる環境を用意してくれていたようにも感じるし、小中高とのびのび育っていたように思うが、その分大学に入ったときの窮屈な感じは今でも鮮明に覚えている。

受験や専門分けを経て共に時間を過ごす人たちが似たような人たちになっていった結果、自分の中の多様性も失われてしまってはいなかっただろうか。決まった時期になったら就職活動をするということに何の疑いも持たなかったことが今となっては恐ろしい。慣習に従うというのも必要なプロセスだが、従う先のものがあまりに強固で広範で、かつ、いつまでもその慣習に身を置き続けるということになっていはいないだろうか。

晴れ晴れとした感覚とともに書き始めたら、何だか重たい質感になってしまった。この重たさというのは、自分自身が課題感を感じながらもそれに対して何かを為すことができる実感がない、もどかしさや悔しさのようなものでもある。

振り返ってみると会社組織を離れ、何にも捉われる必要がなくなった後も私は、型をなぞる→型を破るということを繰り返しているように思う。子どもも、いきなり何でも描いていいと言われるよりも、一旦は「これを真似して描いて」と題材を与えられ、それを描いた後の方がよりのびのびと自由に絵を描くというが、様々な学びやスキル・体験もそんな性質があるのだろうか。そう思うと慣習や型にはめることそのものが悪ではなく、むしろそこで生まれるエネルギーがあるということも感じる。個の集合としての日本社会にはもう随分とエネルギーが蓄えられているのではないだろうか。それが、暴発するような形ではなく、個々人が美しい花を咲かせるような形で解放されるといいなと思うが、一旦暴発することで、社会の流れが大きく変わるかもしれないとも思う。新型コロナウイルス の流行もそうだが、人類はもはや、ショック療法のようなものでしか向かう方向を変えることができないのだろうか。2020.8.28 Fri 18:50 Den Haag