822. 生命のダンスを踊り続ける

 

にわかに何羽かのカモメが声を上げた。あれは、お互いに何かを伝えあったり交しあったりしているのだろうか。全体で一つの音楽を奏でているようにも聞こえる。そんな中でも幼いカモメの声というのは少し甲高く、音の質が違うということはここ1ヶ月ほどで気づいたことだ。

昨日も多くの言葉に出会った。

9月に行われる資格試験の申請に向けて、提出のために録音させてもらったセッションを聞き直し文字に起こしているのだが、そうすると普段その場で話を聞いていたときとはまた違ったことに気づく。

聞き直して初めて分かることもあるのだが、その場、その瞬間でないと感じられないものもあるということもつくづく感じる。その場にあった生命のエネルギーと言えるだろうか。前に自分は微細な波をとらえ増幅させるような作用があるということを考えたことがあるが、それを対話という流れの中に身を置き行なっているため、例えば対話を外から眺め同じことが起こるかというとそうでもない。対話とはまさに、生命のダンスのようなものなのだ。

ダンスを踊るのと、ダンスを眺めるのは全く違う行為である。

ダンスを踊る場合、目の前に一緒に踊る相手がいる。その人の持つエネルギーが輝き発揮されるには自分自身も生きたエネルギーを持ち、共にある必要がある。一方で、眺める行為にはそれが必要ない。眺めるという行為とダンスは、多くの場合切り離されている。それが録音されたものを聞くという形であればなおさらだ。

眺めることは自分を客観的に見つめ、新たな可能性を拓くことにつながるけれど、実際にそれが拓かれるのは、ダンスを踊る経験の中なのだ。

録音を聞き直し、アセスメントをしているとそれだけで何か自分が「できるようになった」気がするが、惑わされてはいけないだろう。確かにアセスメントはできるようになっているかもしれない。客観的・冷静である自分は大いに養われるだろう。しかし自分が主体者として、もしくは間主観的な体験をする協働者として踊ることを目指すなら、踊り続けるのだ。

今ここに生まれている命とダンスをする。今日も深く、軽やかに、そんな時間を過ごしていく。2020.8.27 Thu 7:38 Den Haag

823. 私が日記を書く理由 1年半を経て今感じること

 

いつものように、日記を書き始める前に中庭に目を向けた。正面にあるガーデンハウスの屋根に黒猫が丸まって座っている。喉元と足先に白い模様のある猫だ。耳があちらこちらを向き、時折尻尾がふわんふわんと跳ねる。人間も猫のように内面と表出することが一致していたなら(猫が本当にそうかどうかは分からないが)もっと葛藤少なく生きられるだろうかなどということが浮かんでくる。

先ほど、久しぶりにこれまで書いた「私が日記を書く理由」を読み返した。友人の勧めに背中を押され日記を書き始めてもうすぐ1年半が経とうとしている。今の私にとって日記を書くことの理由と意義は何なのか。改めて言葉にしてみたい。

今の私にとって日記を書くということは一体何なのだろう。そんな問いに対して「対話をしている」という言葉が浮かんできた。

自分自身との対話、他者との対話、自然との対話、世界との対話。

今日の私が感じたことは今日の私しか知り得なくて、日記という形の言葉にすることによって、漠然とした体験の輪郭が形作られてゆく。中には言葉にしていないことも多い。それでもいいのだ。書くというプロセスを通じてさらに新たな体験をしている。大事なはここで書かれていることではなく、書いているそのプロセスにおいて起こっている内的な体験なのだと思う。

それはコーチングセッションでも同様のことが言えるだろう。コーチングセッションにおいて大切なのは、何が話されたかではなく、話しているそのときにどんな体験が起こっていたかである。

自分自身とのつながりや生まれた場所、向かう星を思い出す。そんなことが対話のプロセスで起こっているのだと最近は感じている。

日記を書くことが他者との対話というのは不思議な感覚かもしれないが、そんな感覚もあるということは事実だ。「わたし」が考えていると思っていることの多くは、いきなり「わたし」の中で生まれたわけではない。他者との関わりや対話を通じて新しい種が蒔かれ、そこから芽や根が生えていく。

書くものの中に「誰それがこう言った」ということはほとんど登場しないが、それでも確かにその人と過ごした時間が私の中にはあって、そこから生まれているものがある。日々言葉を綴ることは、奇跡のような出会いをして共に時間を過ごしている人たちとの間に交わされたものがあるという証でもあるのだ。直接言葉を交わすわけではないが、こうして一人言葉を綴るこのときにも、私は自分自身と同時に他者と対話をしているのだと思う。誰かに向けて書くということではない。自分自身に深く向き合うということが、他者にも深く向き合うということと同義なのだと感じている。

そして自然との対話。二週間前の暑さを筆頭に、私はいつも自然に包まれている。今ここでしているひと呼吸が、地球全体とつながっているのだ。ゆっくりと呼吸をしながら、言葉を綴る。そうして生み出されたものは、自然との共同創作物とも言えるだろう。

そして、他者や自然と対話をするということは、世界全体と対話をしているということでもある。私が向き合う相手はとても限られているが、その一人一人が過ごしてきた人生の時間、関わる人々、受け継いできているものを想像するとなんと壮大な物語と出会っているのだろうと思う。

自分自身を含め、それぞれの人の心の中にあるダイヤモンドのような輝きが呼応し、今ここに言葉が生まれている。そう思うと、向きっているこの一台のパソコンがとても神々しくありがたいものにさえ思えてくる。

今の私にとって、日記を書くということ、言葉を綴るということは、もはや個に閉じた取り組みではなくなっているのだ。誰に向けるわけでもない。でも、自分の中心にある点のようなものに近づくほどに、そこに無限の宇宙、もしくは空(くう)のようなものが広がっていることを感じる。

今の私にとって日記を書くことは、自己という存在の小ささとともに、その中に広がる無限の宇宙を感じること、呼吸をするように、他者や自然と対話をしていることを感じること。こうして書いている間にもまた一つ、眩い光を放った小さな結晶が心の中に生まれていることを感じている。2020.8.27 Thu 18:13 Den Haag