819. 涼しい朝と壊れた電熱コンロ

日記を書き始める前に、仲間から共有された記事を読んだりということを始めていた。

深呼吸をして、窓から中庭を眺め、思考を鎮めていく。

身体の感覚に意識を向ける。

今朝もシャワーのあたたかさに身体がゆるむのを感じ、夜中の気温も随分と下がっていることを感じた。

と、黒猫が隣の家の1階部分の屋根の上をテトテトと歩いてくる。あの猫は「小柄な黒猫」だと思っていたが、近づいてきた猫を見るともう随分大きい。どうやら私は最初に見た印象のフィルターを通してずっと黒猫を見ていたようだ。中庭の自然も然り。どれだけ新鮮な目で世界を見つめているのだろうと生い茂る木々に目を凝らす。

中庭にオーナーのヤンさんが出てきた。白いシャツを腕まくりしている。ヤンさんは庭仕事をするとき、大抵白いシャツを着ている。(それ以外のときも白いシャツを着ていることが多いのだろうか。)そんなヤンさんの姿をいつも美しいと感じる。

先日、いつもケトルで湯を沸かすために使っている電熱コンロが壊れてしまったのか、温度調整のつまみを回してもコンロの上部があたたかくならなくなった。幸いにもケトルはIHにも対応しているため、キッチンのIHで湯を沸かしているのだが、湧いた湯の味がIHとヒーターでは全く違うことに毎朝驚いている。

ざっくり言うと、IHで沸かした湯は硬く、電熱コンロで沸かした湯はそれに比べると柔らかい。まずこれは大きくは湯を沸かすまでにかかる時間が関係しているだろう。IHはあっという間に湯が沸く。電熱コンロの場合はある程度時間がかかる。突沸させた水(お湯)の粒子は何だがガチャガチャしている想像が湧くが、味もその通りなのだ。一体感やまとまりがないようにも感じる。

IHの仕組みはよく知らないが、熱くなった電熱線の熱でケトルと水があたたまるのと、電子的な?働きかけによって水があたたまるのではそのプロセスで起こっていることが違うのではないかという気がしている。結果として水は沸騰しているのだが、「沸騰」という現象がものすごく人工的に起こされているような印象だ。

これには多少私の先入観というかイメージも重なっているかもしれないが、「味」という曖昧なものではなく、明らかに違うのはお湯が湧くときの音や湯気の出方である。

以前住んでいたドイツの家もそうだったが、IHの調理器で湯を沸かすと、そこに電気的な波が発生していることが分かる。発せられる音、そして沸騰の度合いが強くなったり弱くなったりする。聴覚が鍛えられているせいか、そのときの音が私にはなかなか賑やかに聞こえるのだ。一方、電熱コンロは比較的静かだ。多少電子音はしているのかもしれないが、あからさまにそれが強くなったり弱くなったりということはないように思う。冬の寒い日に、ケトルの注ぎ口の先から立ち上る細い蒸気と、そのときに出る微かな音で湯が沸いていることに気づいた瞬間はたまらなく幸せな気持ちになる。

静かに湯の温度を保つことができるので来客時にも話をしながらそっとお茶を淹れることができる。残念ながら我が家には久しく来客がないのだが、だからこそ自分のために静かにお茶を淹れ続けたい。

こうして書きながら、新しい電熱コンロを買おうという気持ちが起こってきている。しかしながら電熱ヒーターを私はこれまで二度壊している。私が壊したかどうかは分からないが、今の家に来てしばらくした頃に自分で購入したコンロは半年ほどであたたまらなくなってしまい、その後、キッチンの引き出しにしまってあったことを見つけた備え付けの電熱コンロも先日付かなくなってしまった。備え付けのものは年季が入っていそうだが、それにしてもそんなにしょっちゅう壊れるものなのだろうか。

これまで何度か、おそらく身体に溜まった静電気によって何気なく触れた音響機器を止めてしまったということがあるがそんな風に何か機械の不具合が起こりやすい環境をつくってしまったのだろうか。

隣の部屋の開け放った窓から吹き込んでくる風が足先を撫でる。もう、暑さのかけらもない。今日は今週の中では比較的ゆったり時間が取れるので今週中に終えたいと思っていることに集中して取り組みたい。2020.8.25 Tue 9:11 Den Haag

820. クオリアの生まれた場所、知識と体験

いつもならそろそろ夕食を始める頃だが、今日はその前に日記を書いておくことにした。今日取り組んだこと、向き合ったことを種とし、そこから広がる世界について言葉になっていないことが多くあるということだろう。

一人で暮らしているとこうして書くことや自分のコーチとのコーチングセッション以外に内なるものがアウトプットされる機会というのはなかなかない。では一人でなければそういう機会が多いかというとそうとも言えないだろう。たくさん言葉を交わしているように見えても、どこかで起こったニュースの話や世の中のことが表面的になぞられることも多い。そこに「自分の考え」が含まれているように見えても、それは誰かが言ったことをそのまま自分のものとして取り入れているということも多くある。なぜそう思うのか、その背景や曖昧な感覚まで言葉にして、はじめてそれは自分の言葉になる。


今、中庭の木々が大きく揺れている。夏の終わりに台風が訪れているような感覚にもなる。この国には台風も地震もないが、逆に日本で暮らしてきた私の知らない自然現象のようなものがあるのだろうか。

今日も多くの言葉と向き合った。

その体験を通して改めて感じるのは、ひとりひとりの言葉には固有の世界観があるということだ。質感と言った方がいいかもしれない。ちょうど昨日、自分のコーチとのセッションの中で、母親の胎内にいるときにすでに、その人固有のクオリア(感覚質)が形成されているのではないか、もしくはその時間が、クオリアに大きな影響を与えているのではないかという話になった。

それはその前に真善美の生まれる場所について言葉をしたためたことに端を発するのだが、私たちが今認識している「世界」に出てくる前にどんな世界観を感じていたかは、意識の段階や状態よりも強力なレンズとなって私たちに影響を与えているのではないかということを感じている。

そこがあたたかい世界なのか、つめたい世界なのか、やわらかい世界なのか、かたい世界なのか。意識が生まれるずっと前に生きた世界というのは相対化することは非常に困難であり、その人の生きる世界の感覚そのものになる。そしてそれがどんなものであってもその人にとってはそれが「よし」というものになる。今のところそんな仮説を持っている。

体験や感覚、思考から導き出す多くのことは(ほぼ全てと言ってもいい)、すでに先人たちが何かしら解き明かしていることなのだが、自分自身の体験と考察と言葉を以ってそこにたどり着くということの意味は大いにあるのではないかと思っている。

一つには、自分自身や世界との信頼関係が深くなるということ。ああ、そういうことだったのかと、魂に落ちてくるような納得感、知らなかった生まれ故郷に還ってくるような安堵感。どんなに同じことを知識として知ったとしてもその感覚を得ることは難しいだろう。多少得るとしても、そこにある質感は大きく違うものだと実感している。自ずから導き出したことを裏付ける整理は後押しにはなるが、先に整理がなされると、体験を通じた探究を手放してしまうということが往々にして起こる。新しい考え方やメソッドが礼賛されるが、一向に人や社会は変わらないというのは、知識を手に入れることによる、思考停止ならぬ体験の停止から起こっているのではないだろうか。

残念ながら現代人は日々とても忙しくて、自分自身で体験し、それを深めていく時間をなかなか持つことができない。そうこうしているうちに人生が終わりを迎えてしまったりもする。幸せの基準は人それぞれだとは思うが、少なくとも私は、実際の体験を元に自分自身と向き合い、そこにあるものを深め、「これまでの自分」を超える真理のようなものを更新するということを繰り返すことができたら幸せな人生だったと思えるのではないかと思う。

それに対してこのオランダの暮らしというのはとても適している。あとはこの先、誰かと人生を共にするということをするのかしないのかというテーマは頭の片隅にあるが、それについてはまだ結論が出ていない。できれば、この静けさを共に愛せるような人と旅を続けたいと思うが、そればかりは相手あってのことだ。心踊ることに取り組む日々を続けたら、その先に、自然と何かが与えられることもあるだろう。全てはギフトだ。すでに受け取っているたくさんのギフトに感謝をし、それをさらに先にいる人に贈る。その循環の中に身を置き、吹いてくる風に身を任せたい。2020.8.25 Tue 17:55 Den Haag