814. 言葉のはざま

今見ている景色を表現する言葉をどうやって見つければよいのだろう。

小さな書斎の、小さな窓から中庭を見上げ、途方に暮れている。

言葉にするとその瞬間に、いろいろなものがこぼれ落ちる。

言葉という世界を文節する機能を使って、いかに体験を想起させるか。

日記を書くことの目的は誰かに何かを伝えることではないが、見ているもの、感じていることを言葉でしか表現することができないことにもどかしさを覚えている。

そういえば最近は絵を描いていなかった。

言葉を綴るときもそうだが、絵を描いているときというのはそこに内的な体験が生まれている。結果的にどんなものが描き上がったかは私にとってはあまり重要ではなく、そのプロセスでする体験が、その先の自分に影響を与えているように思う。

現代社会に生きていると言葉も絵も、読者もしくは鑑賞者として向き合うことの方が圧倒的に多いのではないだろうか。それどころか消費者もしくは消費される側になっていることもある。

たとえ「受け手」という立場であっても、そこにどんな体験があるか、どんな体験をしているかに目を向けることができれば、そこには生成もしくは創造が生まれるだろう。

先日日本にいる友人が送ってくれた荷物の中にフォーカシング指向のアートセラピーの本を入れてもらっているが、言葉ではないものを通じて自分自身のさらに深部とつながることを試みることが(もしかするとそこに言葉も組み合わせるのかもしれないが)今からとても楽しみだ。

先週一週間は30度を超える暑さの中、繊細な身体感覚を感じることが難しかったが、気温が下がってきて、思考も感覚も明晰になってきている。再来週末にフローニンゲンを訪ねるまでに取り組みたいことが目白押しだが、数日前まで感じていた重たい感覚はほぼなくなっている。

それには、「やること」だったことのいくつかを終えたということも大きいだろう。あまり強く意識しているわけではないものの、やることが3つ以上溜まっていると「どれも大事だけれどどれから手をつけようか」という思考とともに、それに伴うエネルギー漏れが起こるように思う。ここ2週間ほど感じていたエネルギー漏れは夏の暑さによるものだったのかもしれないし、バイオリズムによるものだったのかもしれない。鈍い意識の中、正確にトレースすることはできなかったものの、身体の状態と抱えているものによって意識の状態や気分が大きく変化することは明らかだった。

いかに自分自身を波のようなゆらぎのある状態として捉えることができるか。「良い」「悪い」といった二元的な判断を下さずにいられるか。立ち現れるものを友として師として捉えることができるか。

庭に成る葡萄の実の一部が色が変わり始めていることにから、新しい季節が確実に訪れていることを感じている。2020.8.21 Fri 8:47 Den Haag