808. 風に倒れた大きな花と風に揺れる小さな花

 

この一週間の暑さは、思考にどんな影響を及ぼしていたのだろうか。

開け放った窓から入ってくるひんやりとした風を感じながらそんなことを思った。昨日からようやく思考と感覚の力が戻ってきた。

愛用しているMacも時折高熱を発し、ファンが回っていたが、私の頭もまさにそんな状態だった。

今日はまどろみの中で長く夢を見ていた。内容は記憶から薄れつつあるが、カップルが出場する運動会のようなものが、途中でお見合いパーティーのようなものに変わったということをおぼろげに覚えている。

中庭に目をやると、庭の端に生えている植物が倒れているのが目に留まる。1mを超えているであろう茎の部分の先に朝顔に似た花が咲いている。(しかし見る限り蔓植物ではなさそうだ。)昨晩降った強い雨の影響だろうか。

しかし、不思議なことに他の、同じくらいの背の高さの植物は倒れていない。

その違いを観察してみると、倒れていない植物と倒れている植物ではまず咲いている花の大きさが圧倒的に違うということが分かる。

倒れていない植物には(倒れていない植物は数種類あるのだが)、ここからではその一つ一つが確認できないほど小さな花が集まって咲いているように見える。しかし倒れている植物は、茎の先に、おそらく手のひらほどの大きな花が咲いているのだ。花が咲く前の蕾も見えるが、見るからに重そうである。

そして、大きな花が咲き、倒れている植物の主軸、真ん中の茎は比較的太めなのに対して、小さな花が咲き、倒れていない植物の主軸の部分はそれに比べるとほっそりとしている。風が吹いているかは分からないが、植物が微かに揺れているのが見える。

大きな花をつけながらも主軸が途中で折れ、倒れてしまった植物と、花は小さく主軸は細いながらも、風に揺られながら立っている植物。

これらの植物に個人や組織を重ね合わせて見ることもできるだろう。

倒れた植物はこのまま枯れていくのだろうか。しかし来年はまた同じ場所で同じように花を咲かせるだろう。輪廻を繰り返す植物にとっては、風に吹かれ、軸が折れてしまったことなど、取るに足らないことなのかもしれない。何年も何十年も、何百年も。植物は花を咲かせ、実がなり、枯れ、新しい種子が芽吹くことを繰り返してきた。その結果ある今の姿なのだから、それがどんなものであっても、たとえ風が吹いて折れてしまったとしても、それがその植物にとって適切な姿なのかもしれない。

しかし、もし、外的な環境変化があまりに急速に起こってしまっているとしたらどうだろう。新しい環境に適応できずに絶えていく植物もあるかもしれない。それも「自然の流れだから」と言ってしまっていいものだろうか。人間をつくった創造主のような存在があるとすると、人間がこんなにも急速に地球の環境を変えてしまうことさえも見越していただろうか。

例えば5億年以上前に起こったカンブリア爆発と呼ばれる突如とした生物の変化・進化。そして6600万年前に突然起こった恐竜の絶滅。

生物は常に進化と絶滅の岐路に立っていてどちらに転ぶかは分からないとすると、このまま地球上の生物が絶滅してしまうということも起こりうるだろう。それからまた何万年もしたら新たな生物が出現するのかもしれない。

とは言え、何もかも「あるがままに」「なすがままに」と指を加えて見ているわけにはいかないだろう。現在地球上に起こっていることのほとんどが人災である。一見自然災害に見えるものも、辿れば人間の生活によって起こっているに違いない。

一人の人間が生きている時間は、地球や宇宙の時間から見るとほんの一瞬に過ぎないが、人類、生物、自然、地球、大きな共同体の来し方行く末を見つめ、私たちの世代でできることを考えていきたい。

どんなに小さな場所も、全ての宇宙とつながっているのだという感覚が生まれている。2020.8.17 Mon 8:21 Den Haag

809. 再び動き出した思考と感覚、世界に届けたいもの

 

泣いたり笑ったり、コロコロと表情を変えるように、空が忙しい1日だった。雹が降っているんじゃないかと思うくらい激しい音を打ち鳴らす雨が降っていたのが夢だったのかと思うくらい、なに食わぬ顔の青空が広がっている。1階部分の屋根にできている水たまりだけが、確かに雨が降ったのだということを教えてくれる。

一週間の休養期間を経て久しぶりに動かした頭は思いの外調子が良くて、深めたいと思っていたテーマの一つにしっかりと向き合うことができた。と言ってもこれは、今後何度も繰り返し深めていくことになるだろう。今の時点で考えたことはまだ一部に過ぎないということだけが今分かっていることだ。

久しぶりにじっくりと思考と言葉に向き合うことをしてみて、改めてそんな時間の重要さを実感している。ひたすら瞑想をすることで悟りに至るということもあるようだが、私にとっては、思考をすること、言葉にすること、同時に感覚とつながることで、バラバラだったものが一つに統合されていき、またその先の世界につながる扉となることを実感している。

ひたすらに自分と向き合うことは大変だけれどもそこからの気づきは大きい。大人数でのディスカッションや対話から得るものもあるが、一対一もしくは自分自身と向気合う取り組みとは生まれるもの、気づくものの質にかなりの違いがあるのではないかと今は感じている。

結局のところ大切なのは、自分自身と向き合おうというコミットメントなのだろうか。人間にはリンゲルマン効果と呼ばれる、大人数だとついつい手抜きをしてしまうという性質があるが、よっぽど意識しないと3人、4人でも無意識の手抜きはあっという間に起こってしまうだろう。

手抜きというと聞こえが悪いが、むしろ手抜きをしなければ様々な利害関係や背景を持った人たちの中で過剰にエネルギーを消耗してしまうのかもしれない。「話半分」くらいが丁度よくて、その一挙手一投足、一言一句に意識を向け、それぞれに対し自分が精一杯に何かを返そうとしたら大変なことになるのだろう。

リンゲルマン効果をはじめとして、脳には様々な癖や盲点、思い込みのようなものがあるが、その方が何か都合が良いことがあるはずなのだ。そしてその多くは脳の情報処理(のキャパシティ)に関する利点と関係しているのではないかと想像する。

夏の暑さによる脳のヒートアイランド現象から解放された今、研究・探究活動にさらに力を入れたいという想いが強くなっている。

8月中に集中して取り組むことがまだまだ残っており、それが終わるまではKindleで新しい書籍を購入することを自主規制しているのだが、読みたい本リストにどんどんと新たな本が追加されている。

できればオランダ時間の午前中はセッションやミーティングなどの外向きの仕事をし、午後は探究活動や創造活動に集中したい。近所で開かれている太極拳の教室もなかなか良さそうなので参加をしてみたいと思っているがそれも9月まではおあずけである。

研究・探究・実践・創造活動にしっかりと時間を取るためには改めて、専門領域に関わる書籍を出版し、講座等を開催するのが良いだろうと感じる。仕事のポートフォリオについてはフローニンゲンに住む友人が何度かアドバイスをくれているのだが、考えるほどに、その通りなのだ。

一対一でじっくりと人と関わることも大好きでできるだけ携わっていたいが、そうするためにも多くの人に対して何かを届ける場合はその部分が得意な人たちと協業するか、書籍等のように届け方を工夫していきたい。

現在取り組んでいるコミュニケーションや対話と意識の発達・全体性の発揮についてはもっと探究を深め、対人支援に関わる人だけでなく、多くの人に届けていきたい。

しかし何より、もっと世界に届けていきたいのは静けさだ。小難しい知識などなくても心の中に静けさがあり、静けさとともに人と向き合うことができたなら、その時間は共に鮮やかな絵を描くような美しい時間になるだろう。そんな時間をどれだけ持つことができたかどうかというのは、人生の豊かさの一つの要素になるのではないかと思っている。

8月の残りの期間はインプットの時間は少ないが、その後、やってくる寒い季節は再び内に篭る季節になりそうだ。2020.8.17 Mon 20:49 Den Haag