806. 久しぶりの自転車

見上げると、平行に引かれた二つの線の横にさらに一つ、白い線が引かれていっていた。南東の方角に向かう飛行機はスキポール空港を目指しているのだろうか。それとも、ドイツ北部や北欧など、もっと他のエリアを目指しているのだろうか。

東の空には、もくもくと、羊の毛のような雲が広がっている。横に広がる雲の形が、新しい季節が訪れつつあることを教えている。

今朝の寝覚めも久しぶりにさっぱりとしたものだった。日中、家があまりあたたまらなかったためだろう。言葉を読むこと、綴ることへの意欲も湧いてきている。カレンダー上ではちょうど8月の真ん中を迎えたところだが、気持ちはもう8月末という感じだ。

昨日はハーグに住む、知人の家にお邪魔した。知人宅までの道のりは途中、気持ちの良い商店街を通り抜けることもあり、歩いて30分という距離も通常なら散歩にちょうど良かったが、連日暑さが続いていたこともあり、歩いていくとそれだけでヘトヘトになってしまうかもしれないという気もしたので自転車で向かうことにした。

家を出る前にタイヤをチェックすると後輪の空気が少し抜けているようだったので、空気を入れ、家を出た。

運河沿いの自転車道の、ほぼ一本道。ペダルを漕ぐと思いの外風が気持ちよく、地図上では10分と出ていた道のりがもっと短いものに感じた。

オランダは、一人当たり1台以上の自転車を持っていると言われるほど、自転車の利用が盛んで自転車道も整備されている。

私も、オランダに移り住んだときに一番最初に購入したのは自転車で、家探しのためにあちこち自転車で走り回った。

しかし、今は自転車にはあまり乗る機会がない。理由は大きく二つ。一つ目は、足を運ぶ機会が比較的ある街の中心部までは商店街を歩いていくことができ、その散歩がとても楽しく気持ちが良いということ。二つ目は、人々が自転車を漕ぐスピードが比較的早く、特に左折の際には自転車道内の追越車線にあたる左のレーンに移らなければならず、それが毎度のこと割とドキドキするということ。

行き先までの道が分からないことが多い私としては、人々が高速で自転車を漕ぐ中で、そのスピードに乗りながら正しい道を判断して目的地にたどり着くというのがなかなか難易度が高いことなのだ。

今回のように、多くの場合、自転車に乗ってしまえば、気持ち良さや便利さも大いに感じるのだが、何せそこまでの心理的な負担が大きい。もしかしたらオランダに来た当初、今思うよりもずっと、自転車に乗るときに心理的な負担があったのだろうか。

ハーグにやってきた最初の1ヶ月間は滞在していた家にインターネットがなかったこともあり街の中心部に近い場所にあるコワーキングスペースを利用していたのだが、朝、街の中心部に向かう人々はなかなかの気迫で、今思えば、低血圧の私にとっては寝起きで高速道路で運転するようなことは結構なストレスだったのだろうと思う。


そんな、自転車に関することをとりとめもなく書いているうちに気づけば数十分が過ぎようとしている。昨日の振り返りもあらためて書き留めておきたいが、明日から通常の生活リズムに戻るにあたって今日は家の掃除をしておきたい。その前に、まずは、鳴り出したお腹に、何か飲み物を摂り、りんごを食べることにする。2020.8.16 Sun 8:48 Den Haag

807. 言葉を育てるということ


ゴロゴロと雷が鳴り始めたが、書斎の窓の向こう側、一階の張り出した部分の屋根に止まっている二羽の鳩は肩をすくめ、丸まったまま動かない。もしかして鳩(もしくは鳥)というのは雨の中では飛ぶことができないのだろうか。気づいたら雨が降り出し、飛び損ねてしまったのかもしれないが、飛んでいたとしても鳩たちは一体どこに向かったのだろう。鳩はいつも夜間や雨が降っている間どこにいるのだろう。

雨が降り出してもなお今いる場所でそのまま佇むということは人間にはなかなかできない。これはまた一つ何か自然から私への示唆なのだろうか。

今日は久しぶりに長い時間パソコンに向かい執筆をすることができた。テーマは真善美についてだ。明日もう一度読み直して来週セッション予定のマイコーチに送り、サイトにもアップをしたい。

読むにしろ書くにしろ、文字と向き合い思考することはなかなかエネルギーが要ることだ。

そう言えば昨日、ハーグに住む知人の家を訪れた際に海外移住をした子どもの日本語学習が話題にあがった。日本に戻ることが前提であるならば日本語の学習は欠かせないものの、日本ではない国で暮らしていくとなったときに子どもにどのくらい日本語を習得させるかというのはなかなか難しいテーマだろう。

生まれた国もしくは民族的な血を継いでいる国と育った国、生きていく国が違う場合のアイデンティティの形成と言語の関係について述べるほどに考察をしていないが、今の時点で私が思うのは、人生や世界をより彩り鮮やかに味わうことと言語は深く関係しているだろうということだ。

極論を言えば、習得する言語は母国や祖国の言語ではなくてもいいかもしれないとは思う。しかしどの国の言葉を学び使うのであっても、一定以上(できれば多く)の語彙を習得し、使えるようになることは重要なことだと思うのだ。

中でも特に重要なのは自分自身の内的かつ繊細な感覚を表現する言葉だ。感情はまず、身体感覚として現れる。幼い子どもはその感覚と一体となり、感覚に支配されるが、だんだんとその感覚を何らかの欲求と結びつけて表現することができるようになる。


そうすることによって、他者に自分の内的な欲求や感情を伝えることができる。その結果、相手から何か反応をもらったり、自分の欲求を叶えたりすることができる。

自分の中にある感覚や欲求の機微を伝えられるようになるほど、他者とのコミュニケーションもスムーズになり、人間関係が上手くいったり自分自身の心の充足度が上がったりもする。

人間関係の悩みは、自分自身の感情や欲求を的確に捉え、適切に表現することができないが故に起こると言っても過言ではない。大人になっても人は、咄嗟に口にしている言葉を通じてコミュニケーションを取ろうとすることが多いが、本当は何を伝えたいのか自分でさえ分かっていないことが多くあるのだ。

多くの場合それは、一般化された言葉ばかりを使う習慣、もしくは、内的な感覚に鈍感になっている状態のいずれかもしくはいずれもによって起こる。

他者とコミュニケーションを取るためには言葉が必要だし、思考をするためにも言葉が必要だ。感覚が言葉を育て、言葉が感覚を育てる。このあたりは今後、さらに研究・探究を深めていきたいテーマでもある。

子どもの話に戻ると(子どもに限らずだが)認知の発達に合わせて、認識している世界を適切に表現できるような言葉を獲得していくことは、今見ている世界を存分に味わっていくことにもつながるのだと考えられる。

そして同時に、何かを表現したいという内的な欲求を育てることも重要だろう。どんなに言葉を覚えたとしても、内なる欲求がなければ自分の言葉を失った生きる屍のような大人になってしまうだろう。

また、こうして考えていると、大人になっても語彙を増やし続けるということの重要性が浮き彫りになってくる。今見ている世界を味わい、表現するには、それに必要な言葉が必要なのだ。しかし私たちは新しい知識を習得するのに忙しい一方で、感じること、表現すること、表現するための言葉を育てることを気づけば放棄してしまってはいないだろうか。

先達たちの残した言葉には、読むたびに新しい世界に出会える深淵さを含んだものも多いが、今私たちはそんな風に言葉を育てることができているだろうか。自分を耕すことができているだろうか。

少し前に、二羽の鳩は一階の屋根から飛び立った。雨の中で飛び立つことができなのだろうかと心配したのも束の間だった。鳩は、ちょっとやそっとの雨にはもろともせず、飛ぶことができたのだ。

この雨は、オランダの夏を洗い流してゆくのだろうか。明日からまた多くの言葉に向き合うことになるだろう。2020.8.16 Sun 19:32 Den Haag