805. 音の向こうに想う世界、戻ってきつつある感覚


数十分前に聞こえ始めたピアノの演奏が気づけば終わっていた。それが自分の心にどんな揺らぎをもたらしていたか、なくなってからその余韻に気づく。

ピアノの演奏を通して、私は何人もの人の人生を想像しているのだということに気づく。楽曲を作った作曲家、今ピアノを弾いている演奏者、そして作曲家や演奏者を取り巻く、もしかしたら側でピアノの音色を聞いているかもしれない人々。

演奏の向こう側にあるそれぞれの人の人生を思うとそこはかとなく切なく愛おしい気持ちになってくるが、それは結局のところ、いくつもの壮大な人生を自分自身に照らし合わせているということだろう。

そう思った瞬間に、作曲家も演奏者も、その周囲の人たちも消え、世界にはただひとり、わたしという存在しかいなくなる。小さな書斎でピアノの音に耳を傾けるわたし。

小さな小さな存在が一心に、聞こえてくる音に耳を傾けている。

自分だけでなく、一人一人がそんな存在なのだと思うと、また、それぞれの人の人生が、その一瞬の中で感じていることが、この上なくかけがえのないものに思えてくる。

決して交わることのない世界に、ひとりで生きている私たち。それを分かっていながらも、他者の見ている景色を見て、心を寄せようとする関わり。それはもしかしたら、世界の美しい面だけを見ているのかもしれないけれど、人は最終的には孤独で、相入れることなく、それでも人と何かを交そうとする存在であるということを信じたい。

こうして、心の淵からやってくる言葉を眺めながら、随分と身体の状態が戻ってきたことを感じている。日記を一週間遅れで公開していることから、これからこの一週間の日記を日々読み直していくことになるが、この一週間私は「暑い」「頭が働かない」「身体に熱がこもっている」ということしか書いていないのではないかという気がしてくる。いろいろ書いているだろうけど、結局私が考えていたこと、感じていたことはその三つだ。

そのくらい、私にとってこの一週間の暑さは厳しかった。

外的な暑さが直接的に厳しいというよりも、外的な暑さによって体内に熱が溜まり、それを放出できない状態が日中だけでなく夜間まで続き、睡眠の質が著しく低下していた。睡眠の質が低下することは共感能力を著しく下げることにつながるそうだが、おそらくそれはその通りだろう。

これから一週間は過去の一週間の日記を読み返しながら、自分がどういう精神状態でどんな思考をしていたのかということを検証したい。

おそらく、思考が非常に表面的になり、時に攻撃的であったり悲観的になっていたのではないかと思う。

幸いにも日本がお盆ということもあり普段よりもセッションや打ち合わせはだいぶ少なくなっていたのだが、1日数時間の対話活動に、1日分の感覚を使い、あとは死んだ様に過ごしていたといっても過言ではない。

今ならそんな風に自分の状態が日々どのように変化しているかを基本的はリアルタイムに、もしくは少し間を置いて観察することができるが、日本で企業に勤めていたときにはそんなことが全くできていなかった。

もし自分の心身と思考の状態を観察することができていたならば、毎晩お酒を飲んだり、ランチで焼肉定食をもりもり食べたりすることもなかっただろう。

日本人の成人の多くは新しい知識やスキルを身につけること・能力を高めることにいとまがないが、その前に、身体の状態をととのえる方がずっと重要で、身体がととのえば、それだけで本来持っている力がもっともとっと発揮されていくのではないかと思う。

そもそも生き物なのだから、そこにバイオリズムのようなものがあるのは当たり前で、自然のリズムとも調和しながら、年間や人生を通じて、ゆるやかな緩急のついた日々の営みを行なっていけることが本来は望ましいだろう。

今日はまた気温が上がりそうだが、昨晩の雰囲気からもう夏が終盤に近づいていることを感じている。今週末まではゆったりと英気を養う期間とし、来週また、執筆活動などを再開したい。2020.8.15 Sat 11:21 Den Haag