787. 不可思議な世界

 

日本にいるプロジェクトの仲間とのメッセージのやりとりを終え、窓の外の景色に目を向けた。

この小さな画面の中には文字がいっぱいで、一方で、画面の外には文字はない。あまりにも違う世界に驚く。私が日本を離れている理由の一つはこれだ。文字が情報として目や思考に飛び込んでこない景色が必要なのだ。


おそらく日本では、音の多くも瞬時に情報として変換される。頭の中はあっという間に情報でいっぱいになる。

それらを仕分けたり、整理したり、その中から自分自身が本当に美しいと感じるものを選び取るには時間もエネルギーも必要になる。自分を取り巻くものは無意識に「慣習的に生成された美意識」として意識の中に刷り込まれる。それは必ずしも批判の目を向けるべきものではないのだが、刷り込まれたものなのに「自分が選んでいるもの」として受け取っていることに気づいていなければ、それは真の命の喜びには結びつかないだろう。

日記を書き始める前に読んだフローニンゲンに住む友人の日記の中で、PCのデスクトップに保存していたファイルが消えてしまったという話が出てきた。

先日は、私がウェブサイト上で保存している日記が、タイトルだけは新しいものだが、中身は古いものになっているということに気づいたということも友人は記述していた。

確かにタイトルをクリックすると中身は以前の日記と同じ内容になっている一方で、データ上では新しい内容になっているのでおかしいなと思ってあれこれ試行をしたところ、日記のリンクにリダイレクトが設定されており、クリックをすると自動的に過去の日記に飛ぶようになっていたことが分かった。

リダイレクトを解除して無事表示されるようになったのだが、そもそも私はリダイレクトを設定した覚えはない。これまで、何度かサイト改修をしており、その流れでリダイレクトの機能を入れてはいるが、個別の記事についてはその設定をする必要がなく、サイト全体でもリダイレクトの設定を最後にしたのは半年以上前ではないかと思う。

それがある日の日記だけ、リダイレクトの設定がされていた。不思議である。不思議というより、不可思議という言葉がしっくりくる。

そう書きながら、むしろ、世界はそういうものであって、今まで自分がある特定の条件や法則のもと進んでいく世界にしか身を置いていなかったもしくは認識していなかったのではないかという気がしてきた。

不可思議というのは人間の基準であって、例えば情報をつくっているものが粒子もしくは波のような生き物だとしたら、自ら動いて変化をしていくことは何らおかしくはないことなのだ。

瞬間移動のようなものができないのは人間くらいで、それも人間の意識がつくりだしている限界に過ぎないのかもしれない。

少なくとも人は思い込みのブレーキを外せばスプーンくらいはひょいと曲げることができる。

世界をもっと注意深く観察したら、そこにはこれまで見てきたと思っているものとは全く違う世界があることに気づくだろうか。それとも肉眼を通した観察には限界があり、心眼や魂眼で見ることが必要だろうか。

今日も新鮮な耳と眼、心で世界と向き合いたい。2020.8.4 Tue 9:04 Den Haag

 

788. 言葉で文節されない世界


顔を上げると、書き殴られたような飛行機雲がいくつも空にかかっていて驚いた。その向こうには薄い鱗のような雲、別の方角には綿菓子のような雲。雲。雲。

今朝の日記にも書いたように思うが、普段眺めているパソコンの画面の中の世界と、窓の外の世界はこんなにも違うのかと思う。

言葉に埋め尽くされた世界と言葉のない世界。

窓の外の世界を文節するのは、私の頭の中にある言葉だけだ。

もし今、自分にとって大切なものを思い出したいという人に一つだけ進めることがあるならば、言葉のない世界に身を置くことだろう。

そこに身を置いて、それでも残ったものが、それでも美しいと思ったものが、言葉にできないと思ったものが、大切なものなのだ。

あと二つほど今日のうちにやっておきたいことが浮かんでいて、それに加えて部屋の片付けもしたいという考えもあって、今日はゆっくりと日記を書くことは諦めようと思っている。

それでもこうして書いているのは何か書きたいことがあったからだろう。

今日もビックリするような、新しく知ったことがあったのだが、それは日記に書き留めておきたいことと言うよりも、仲間に知らせたいことだ。

思い返せばおそらく昨晩に迎えたはずの満月は強烈で、私は随分と長いこと眠っていたように思う。いや、眠っていたと思ったが途中で起き出したのだったっけ。

何かとても思考が働いたような気がするが思い出せない。

言葉も、言葉にならないものの、もっと表現したい。

そのためにはもう少し世界との接点を狭めてみるのがいいだろうか。

日中、目の前のことにもっと深く集中することができたなら、同じ量のことを半分の時間で終わらせることができるかもしれない。

もちろんそれに人との対話の時間は含まれていなくて、対話の時間は、例えば先日、思わぬ出来事からフローニンゲンに住む友人と気づけば5時間も話していたように、あれこれと、予定不調和に、潜ったり泳いだりするように過ごしたい。

友人は当初私が時間を取ることになったことに随分恐縮していたようだったが、むしろ私はそうやって、大切な人たちと話をすること、ときに楽しく、ときに真剣に向き合うことができるように予定をあまり入れないようにしていると言っても過言ではない。

そういうことはもちろん多くはないが、予定ではないものに手を広げることのできる自分でありたい。

静けさの中で、自分にとって大切なことを確認する。まさに今はその時間を持ちたかったのだろう。2020.8.4 Tue 20:42 Den Haag