782. 新しい一年の始まりの日に思う、与えられたギフトのこと、対話のこと

 

遠くで響く鐘の音とともに、風が、今にも動き出しそうだが停止していた、絵画のような世界を揺らした。

庭の真ん中に伸びている洋梨の木には、向かって右側、西側の低い部分にだけ実が下がっている。その中には鳥が啄んだために表面の一部がなくなり、中がむき出しになっているものもある。

洋梨の木の横、葡萄の生い茂った棚の上を、喉元と足先の白い黒猫が歩いてくる。棚の上というよりも、葡萄の葉をかき分けてやってくる感じだ。

日記を書くことはもちろんだが、そのために小さな書斎の窓辺に座り、中庭を眺めるという行為そのものが、心の中の静けさとスペースを思い出させてくれる。

静けさも、スペースの一部とも言える。

自分の中にあるあわい(間・ま・あいだ)の存在に気づくことができたというのが、この一年間で手にしたものだろうか。

そんなことを考えるのは、今日が自分にとって節目となる日だからだろう。

朝起きて届いていたメッセージで、命が祝福に包まれているということに大きな感謝を感じた。普段、あまり人との関わりはないが、こうして祝ってもらえるというのは嬉しいものだ。

短い言葉、長い言葉。それぞれの言葉の先に、その人がこの1年間、そしてさらにこれまで過ごしてきた人生を思う。

自分の中にあるスペース。凪のような場所に深くつながることができるようになったのとともに、特にこの半年でテーマとして湧き上がってきて今も心の中に強くあるのが、祈る、祝う、礼う(うやまう)という言葉だ。

人に対して、自然に対して、ただそんな風に向き合っていたい。

11日を祈りと祝いと礼いとともに過ごしていたい。

カモメの声を聞きながらそんなことを考えている。

礼(れい)とは、妹の名前でもある。妹は兄や私と違って生まれてくるときに小さくお産が大変だったようで、そのときお世話になった人たち、これから生きていく中で出会う人たちに感謝の気持ちを忘れずにという意味で名付けられたと聞いている。

勉強しなさいという言葉をはじめ、「○○しなさい」ということをほとんど言われたことがなかったが、「周りの人に感謝をしなさい」という言葉だけは私の中に強く刻まれている。

兄は拓(たく)という。「自分で自分の道を切り拓く」という意味で名付けられたと聞く。

そして私は草(そう)。野に咲く草花のように、どんな場所でもたくましく生きてほしいという願いは、十分すぎるほどに心と身体に刻まれ、それが自分自身の勇気となり、後押しとなってきた。

自分で道を切り拓く、どんな場所でもたくましく生きる。

そんな先に、両親が最後に選んだのが、感謝の意味を持つ言葉だった。

それは、妹に向けられた願いや、周囲の人への感謝の気持ちであるとともに、私に向けられた願いでもあっただろう。(名前の通り自由奔放に育つことを3歳くらいのうちに見越していたのかは定かではないが、きっと何か感じることはあったのだろう。)

こう考えると、この先の人生においてなすべきことはすでに立ち上がってきているということを感じる。

「べき」というのは、何か外的な圧力に迫られた、どこかネガティブな言葉のイメージを持っていたが、内とも外ともつかない場所から、呼ばれるように心突き動かされることがあり、それについて「なすべきことだ」と感じる自分がいる。

天命や使命、コーリングという言葉にも近い。

今朝目覚めたときに、なすべきこと、これから深めていくことの一つとして、「対話」とういテーマが降りてきていた。

昨晩は人と人とが交わすコミュニケーションにはステージ(段階)があるということをまとめていたのだが、その中で最後に着地したのは対話であった。おそらくこれまで私が考えてきたことや深めてきたことも、振り返ってみると対話についてだったのだが、私はそれを「対話」と明言することを避けてきたように思う。

それは、コミュニケーションと同じく、対話もとても曖昧なものであるとともに、何かとても手垢がついたようのも思えていたからだろう。

対話というと、どこか非日常的で、こそばゆいような感覚。そんなものもかつての私は持っていたように思う。

しかし今、少なくとも日本には圧倒的に対話が不足しているということを感じるのだ。共感だけでなく共創を生み出すような対話について、まだ十分に研究や探究・検討がなされていないようにも感じる。ナラティブや社会構成主義といった言葉や考え方は組織開発の文脈の中でも使われてきているが、そのために必要な対話となると、一気にスキルの習得に意識が寄ってしまうように思う。

今オランダにいて感じるのは、オランダではおそらく小さい頃から対話的に人と向き合う素地が強く育てられているのではないかということだ。他者の視点を取ることはできずとも、対話を通じて、まずは自分自身の感情や欲求に光を当てる。それをしっかりとやっているからこそ、他者と向き合うこともできるようになっていくのではないかと思う。

そういう意味では、残念ながら、大人になってどんなに対話的なコミュニケーションを行おうとしても難しいのではないだろうか。大人になるもっともっと手前で、しっかりと味合うものがあるからこそ、自分自身を開いた状態で人や世界に出会うことができるようになるのではないか。

大人になる手前、特に学校教育や家庭の中で子どもがどんなコミュニケーションの中に身を置くかについては今後のオランダでの暮らしの中でぜひ深めたいテーマである。それを元に、おそらく大きな積み残しがあるであろう日本の大人たちが対話を通じて人や世界と関わることを後押しするにはどうしたらいいかを考えていきたい。

現在執筆している書籍も、大きくコミュニケーションというテーマを置いてきたが、その中でも対話に焦点を当てるものにしていきたい。

書いているうちにいろいろな想いや考えが浮かび上がってきたが、このあとの予定に向けて、一旦、思考を落ち着ける時間を持ちたい。

その後は散歩がてら街の中心部に出かけ、美容院に行く予定だ。さっぱりと髪を切って、新しい一年のスタートを切りたい。2020.8.2 Sun 10:42 Den Haag