781. 共同作業としてのコミュニケーション

 

中庭に鳥の声が響く。風の音が駆け抜ける。
寝室の窓辺に吊るしたチャイムが、ぽつぽつと音を奏でる。

今日は6時すぎに目が覚めた。昨日、深夜のセッションを終えベッドに入ったのが2時半すぎだったため睡眠時間はさほど長くはないが、倦怠感はない。これまで週末に持っている深夜のセッションの後に「すぐには眠れないから」と、読書などをしており、その結果眠りにつくのが4時頃、起き出すのが10時頃になり、それでもけだるい感じが残ることが多かったが、どうやら読書などの活動が睡眠の質を下げていたようだ。いつもは21時頃に行う仮眠を18時前後に行ったというのも良かったのだろうか。(あまりの暑さに頭が働かず、だらだらと過ごしていただけなのだが。)

目覚めると、昨晩寝る前に思い浮かんでいたアイディアが随分と整理され、鮮明になっていた。

それはコミュニケーションについてだ。昨晩、個人の意識の段階と組織の状態についての書籍を読んでいたが、そのときにふと、世の中に個人の意識と組織、いずれかについての段階については深く探究・言及がされているものが多いものの一対一のコミュニケーションについて深く整理されているものというのは今のところ出会っていないのではということに気づいた。

コミュニケーションスキルについての論理や書籍は多くあるし、コーチングをはじめとした、専門家がクライアントの成長・変容支援のためにどのような関わりをすればいいかということも多く材料がある。同時に、「組織のコミュニケーションがどのような状態か」についての視点もあるし、ざっくりと「コミュニケーションの種類」について触れられているものもある。

しかし、意識の段階や状態と同じように、コミュニケーションの質がダイナミックに変化するもので、それがいかに人の意識の変容に影響を与えるか、しかもそれを、専門家とクライアントという関係性ではなくどのように行っていくことができるか、お互いの間にあるコミュニケーションを発達させていくことにどのように取り組むことができるかについてはあまり整理されていないように思うのだ。

オランダに住む友人が以前翻訳した、オットー・ラスキーによる『Measuring hidden dimensions: The art and science of fully engaging adults』(邦題:心の隠された領域の測定 成人以降の心の発達理論と測定手法)には、専門家とクライアントの発達段階の組み合わせについて言及がなされていた箇所があったが、私が知る限りではそれくらいだろうか。(他に研究者がいないかどうかは改めて調べてみるとともに友人にも聞いてみたいところだ。)

これは、コミュニケーションがこと、「個人のスキル」の問題の話だと思われていることとつながっているように思う。実際には、コミュニケーションは相互作用であり、「組織内のコミュニケーション」などというものはなく、そこには一対一もしくは一対他のコミュニケーションの集合があるのだ。それなのに、少なくとも、私が携わってきた対話を通じた組織開発の領域においてもなぜかコミュニケーションについて「役職が上位の者が自分のスキルを向上させ取り組むもの」だと思われている。

これは、ある意味では効果的なのだが、そのコミュニケーションによって起こることを考えると、ある意味では効果をなさないと言える。

どういうことか。

具体的にはロバート・キーガンの成人発達理論における第三段階(慣習的段階)の人と第四段階(自己主導段階)の人が交わすコミュニケーションについては、先輩と後輩、専門家とクライアント、知っている人と知らない人という立場の上下関係のようなものが前提となっており、そこに葛藤や揺らぎが生まれづらいのだ。

このタイプのコミュニケーションを仮に先輩・後輩型と呼ぶとすると(ダウンロード型と呼ばれているものにも近いだろう)、このコミュニケーションをどんなに続けても、双方の意識の発達は起こりづらいと考えられる。教える人はいつまで経っても教える人で、教えられる人はいつまで経っても教えられる人なのだ。

そして、組織の中ではこの関係にコーチングが持ち込まれることがほとんどである。ここで用いられるコーチングとは第一世代のコーチングと呼ばれる、目標達成志向のコーチングであり、慣習的段階にいる人が自己主導的になっていくことを支援するが、企業内ではコーチ側も結局のところ慣習を抜け切れておらず、「想定の範囲内で主体的に動いてほしい」という、矛盾した要請の中に収まる人しか育たないことになる。


現在コーチングは、より対話的で共創的な第三世代まで進化をしているが、残念ながら第一世代(目的達成型)のコーチングをどんなに続けても第三世代のコーチングには至らないだろう。そこにいる人たちの意識の発達が起こらないのだから。

もちろん、これは組織や企業の中で起こっていることの一部を切り取っているに過ぎず、全てではない。企業に身を置きながらも、自らのさらなる意識の発達に取り組む人たちもおり、そのための取り組みも多く提供されている。しかしながら、それができているのはよほどしっかりと練られた取り組みであり、かつ、中長期に渡って人の育成に時間と費用を投資することができる企業に限られるというのが現実だろう。

残念ながら、付け焼き刃のようなコーチングスキルだけが導入され、コミュニケーションの質が本質的に変わっていないというのが現状のように思う。

それにしても、一人一人の意識の段階に比べて、コミュニケーションの段階という考え方が用いられづらいのはなぜなのだろう。意識の段階の話は、メカニズムとして知るだけでも人の育成に関してこれまでとは違った新たな視点を獲得することができとても有益なように感じるが、一方、既存のヒエラルキー構造と重ね合わせられることによって、人の優劣をつけているように受け取られる場合もあり、アレルギーのような反応が出る場合もある。

それに対して、コミュニケーションの段階という視点を用いると、個人にその責任の矛先が向けられるわけではないこと、そして、自分自身の意識の状態よりは客体化しやすいように思うのだがそうでもないのだろうか。対話について捉えるというのはより高度なメタ認知の視点が必要なのだろうか。

コミュニケーションというのはまず概念的であり、それに対して段階という概念を重ね合わせるのは、やはりわかりづらいことなのだろうか。もしくは、人は、「自分が上手くいかないことは環境や状況のせいにし、他者が上手くいかないことはその人のパーソナリティや個人の特性のせいにする」という性質があるが、そのこととも関係しているのかもしれない。

個人が自己の開発に取り組む場合、その責任の矛先を自分に向けることは大切なことだと思う。しかし一方で、コミュニケーションを個人のスキル開発に留めることの限界もあるのではないか。

まだ書き切れないことばかりだが頭の中では、コミュニケーションの段階についてだいぶ整理がされてきている。これはぜひ、現在執筆を進めている書籍の原稿の中にも盛り込みたい。

気づいたら、いつも朝に書いている日記よりも随分と多くの言葉が綴られていた。このテーマはそれだけ私にとって関心が高く重要で、かつ熱がこもるテーマでもあるのだろう。


「コミュニケーションを共同作業として捉える」というだけでも、随分と世界の見え方は変わってくるのではないだろうか。

コミュニケーションは共に取り組むものなのだ。そこに、問う人、・問われる人、教える人・教えられる人という関係性ではなく、「ともにつくる人」という合意がなされたときに、コミュニケーションの質は大きく変わり、それがひいてはそれぞれの人が本来持っている力を発揮していくことにつながっていくのだと思う。2020.08.01 8:20 Den Haag