772. 屋根の上のカモメたち

顔を上げると、空の様子が随分と変わっていた。西から東に、ゆっくりと鱗状の雲が流れていく。向かいの家の屋根には白いカモメが二羽、一羽は煙突の跡の中から突き出た排気管の上に丸まって座り(座りという表現が適切なのだろうか)、もう一羽はそこから3mほど離れたところに、やはり身体を丸めて座っている。

「白いカモメ」とわざわざ書いたのは、少し前まではそこに「白くないカモメ」の姿があったからだ。

日記を書こうとパソコンを開け、窓から中庭を眺めると、小柄な黒猫が我が家のバルコニーの方に歩いてくる様子が見えた。中庭で遊ぶ猫たちと仲良くなりたいと常々思っている私にとっては、猫に近づく絶好のチャンスだ。急いで書斎の隣にある寝室の、開け放った扉からバルコニーに出る。黒猫の姿はもう見えなくなっていると思ったら、ちょうど書斎の窓の下からこちらに向かってくるところだった。「にゃあ」と話しかけると顔を上げ、「にゃあ」と返してくる。「遊ぼう」という気持ちを込めてもう一度「にゃあにゃあ」と声をかけてみるも、バルコニーの前をスタスタと通り過ぎていく。

このツンデレな感じにまたたまらなく心が惹かれる。(と言ってもまだ「デレ」は見たことがないのだが。)中庭のガーデンハウスの屋根の上をトコトコと歩き、1階部分の庭に軽やかに降りる様子を眺める。

そんな中、「ピイピイピイ」と、高くか細い声が聞こえてきた。

顔を上げると、向かいの家の屋根の上に、灰色がかった毛のカモメがいた。

あれはおそらく、数日前に飛べるようになった幼いカモメだ。飛べない状態で1階の庭に迷い込んでいたところを、オーナーのヤンさんが捕まえ、屋根の上に逃がしたもののそこから半日ほどは飛び立てない状態が続いていた。周りでは飛ぶことのできるカモメたちがその様子を見守り、ときに猫を、そして私のことも威嚇してきた。

翌朝、幼いカモメは悠然と空を飛んでいた。

そのカモメが、群れからはぐれてしまったのだろうか。

ピイピイと鳴く周囲には他のカモメの姿はない。

「あのカモメはまたひとりぼっちで屋根の上で声を上げ続けるのだろうか」

そんなことを考えたのが、つい20分ほど前だ。

白いカモメたちが姿を現し、幼いカモメは姿を消した。

きっと群の仲間を見つけたのだろう。

こうして考えると、私は随分と短い時間の中で起こることに一喜一憂したり、気を揉んだりしているということが分かる。そして、自分の持つ価値観を通して世界を見ているのだということも感じる。

目の前のことに、何か物語を見出したいというのは人間の性なのだろうか。

雲はまたすっかり形を変えている。

そこに何の意味も解釈も与えず、ただ流れる雲を見上げていたい。2020.7.26 Sun 8:56 Den Haag

 

773. 常識や社会をアップデートするために

 

「今朝」という言葉の感覚が意味するものが、随分遠い場所にあるような気がする。そんな日々をもう長いこと過ごしている。

中庭の草花や木々が揺れる。

「そこに風が吹いている」というのは、認知と記憶が作り出している考えだ。幼い頃、きっとある年齢までは、全てのものを体験を通して知っていったのだろう。それが、体験と結びつかない知識だけを頭に詰め込むようになるのはいつ頃からなのだろうか。

先日、オランダの小学校では「自分が嫌だと意思表示をしたいけれど言葉に出せないときにはどうするか」「手の前でバッテンをしている人は何を伝えようとしているのか」といったことを、5歳くらいの子どもたちが話し合ったり考えたりする、という話を聞いた。(正確には少し違う表現だったかもしれないが、そういう内容だったと理解している。オランダには色々な学校があるので、全てがそうだとは限らないだろう。)

「見かけ上同じ行為をしていても、そこにある考えや気持ちは人によって違う」ということを理解できるというのは、ある程度年齢と経験を経てできるようになることだと思っていたので、その話を聞いてとても驚いた。

実際に子どもたちがどのくらい他者の内面について想像をすることができるのかは分からない。しかし、まず大事なのは、「自分はどうか」「他者はどうか」と考える視点や習慣を持つことそのものだろう。

翻ってみると日本の学校教育や社会に於いては、「自分はどうか」「他者はどうか」と考えを巡らせることなしに社会的な慣習に則った一つの正しい答えがあるという考えの中に人を閉じ込めることが多いのではないだろうか。

日本では他者依存・慣習的段階に留まる人が多いという認識を持っているが、その根底にあるのは、他者依存・慣習的段階の手前の利己的・道具主義的段階を健全な形で十分に味わっていないという状況があるのではないかとも思っている。

「社会」という目に見えない基準や同調圧力が強く働く場所。そこにはどんな土台や前提があるのだろうか。

日本では今、新型コロナウイルスに感染したら周囲に謝らないといけないような空気があるとも聞く。遠出をしたことが周囲に知られるだけでも、避難の中に身を置くような状況になるそうだ。

非難されてしかるべき状況はあるかもしれないが、日々の暮らしを支えるために人と接しなければならない仕事の人はどうなるのだろう。

都市や社会構造をそのままに「外に出るときはマスクをつけて」という生活をあとどのくらい続けることができるだろう。

「色々な考えがある」と済ませてしまえばそれまでだが、そもそもその考えがどこから来ているものなのか、自分の頭を使って考えているのか、どれだけの材料と前提と自己批判をもって考えているのかということへの検討なしに受け入れられているのであれば、洗脳をされているのと変わらない状態なのではないだろうか。

考えるほどに、現在の日本の状況・人の意識への危惧が生まれてくる。これは、まずはそっくりそのまま自分に還すべきだろう。その上で、やはり、日本の社会にも目を向け続けたい。

「社会」などという曖昧な言葉で誤魔化してはいけない。社会とはひとりひとりの意識と行動と消費や生産・生成活動の結果であり集合体なのだ。

それに対して何ができるか。

自分自身が、真剣に「日本社会」に関わるときが来ているのだろう。

ここ数日特に考えているのが、これからリーダーになっていく人たちをどう後押しすることができるかということだ。現在すでに企業の中で管理職担っている人たちや経営者の人たちはこれから10年、15年くらい、社会を牽引していくだろう。同時にだんだんと世代交代が起こる。世代交代をしてからでは遅いのだ。そこから身につけてきた慣習を変えていこうとすると大きなエネルギーが必要になる。

長期的に見ると、現在、そしてこれから子どもを育てていく人たちの在り方や行動が、大きく日本の未来に影響を与えていくだろう。その後押しをどれだけすることができるか。最近何度か触れていることだが、残念ながら、40代、50代以上の人たちはどんなに自分自身が発達・変容したとしても生物学的のその遺伝子を後世に残すことはできない。しかし、環境をつくることを通じて、後世がより良く生きることの後押しをすることはできる。

私自身、今もこれからも「自分のための学び」「自分自身の変容のための取り組み」はずっと続けていくことになるだろうけれど、それは、後に生きる人たちに還元することよって初めて大きな流れや循環になるに違いない。

こんな風に考えるのは、自分が歳を取り、子孫を残すという形で人類の大いなる時間の流れに身を置くことが難しくなるときが近づいているからだろうか。人間はある一定まで歳を取ると、育てられるよりも育てる側に回っていくのかもしれない。もしくは育てることを通じて自分自身が育つということになっていくのだろう。

どんな風に社会と関わっていくのか。どんな風に生きていくのか。

数字は一つの指標に過ぎないが、その指標が更新されるときを迎えようとする中、生き方について深く考えるときが来ていることを感じる。

短い期間で答えを出すことでもないだろう。生きることを通じて、生きることについて考え続けられたらと思っている。2020.7.26 Sun 21:08 Den Haag