771. 対話から浮かんできた種まきの話、そしてすっかり変わった自分の顔に驚いて

外の音に耳を澄ますも聞こえてくるのは周囲の家から聞こえてくる生活音や機械音、表の道を通り抜けるトラムの音。自然や生き物の音は、雨の中に身を潜めている。いや、様々な音こそが、静けさをはじめとした世界の全てを含んだ音なのだろうか。

昨日はとても久しぶりに、日本人と直接顔を合わせ話をした。想いとともに今ここに在る人との時間はいつもあっという間だ。受け取ったこと、自分の中で新たに湧き出てきたことは、これからまた新たな花を咲かせていくだろう。言葉にせずとも、心の中に小さな種が蒔かれていることを感じている。急いで言葉にしないことで、まずはしっかりと根が伸びていくだろう。

「種を蒔く」という言葉とともに、「蒔く」という同士は英語で「sow」であったことを思い出す。私はこれまで名前の草をアルファベットでsouと表記してきたが、「スー」と発音されることが多い。言葉の意味から考えても、今後sowと表記してみようかと思うくらいだ。

そんなことを考えていたらふと、ヴィパッサナー瞑想のときに聞いた話の一つを思い出す。「苦しみの種を蒔けば苦しみの花が咲く、喜びの種を蒔けば喜びの花が咲く」確かそんな言葉だったと思う。

今立ち現れている現実というのが、過去の自分が蒔いた種によるものだとすると、私はどんな種を蒔いたのだろう。そして今、どんな種を蒔いているのだろう。

人と言葉を交わすというのは、種を蒔く行為にも近い。

いや、私にとっては、種を見つける行為かもしれない。

すでにあるはずの、でも眠っている種を見つける。

見つけさえすればあとはそこに水をやることができる。ぐんぐんと成長していく。まずは、そこに光を当てるのだ。

向き合う人の中にある種にどれだけ気づくことができただろうということは日々自分自身に問いかけたいことだ。

昨日のことで一つ、驚いたことを書き記しておく。

昨日、家に帰ってきて鏡を見て驚いた。顔が変わっているのだ。見知らぬ顔がそこにあったと言ってもいい。何が起こったかは分からない、でも、これまで鏡で見てきたものとは全く違った顔がそこにあった。

寝室のクローゼットの鏡の前に立ち驚いて、キッチンの端にある鏡にも、そしてトイレの鏡にも、わざわざ自分の顔を映しに行った。やはり、見覚えのない顔がそこにある。

一体何が起こったのだろう。

日頃からスーパーなどで顔見知りのスタッフと言葉を交わすことはあるが、人と対面で向き合って話をするのは半年ぶりくらいだった。そんな中私はよっぽど相手の顔を見ることに集中していたのだろう。

普段、オンラインでは音声のみのやりとりがほとんどで、顔を見て話すことといえば複数人が参加する会議のときくらいだ。親しい人と長時間顔を見て話すことはまれにあるが、やはり、画面越しというのは対面とは違うのだろう。

人は、見ていると思っているものの8割は記憶から映像を引き出しているというが、本当にそうなのだということを実感する。

普段、何気なく見ている鏡の中の私は、もうかなり見慣れた私であって、そこに向ける視線はほぼ惰性と言ってもいいだろう。見ているようで、ほぼ見ていないのである。それに対して実際に面と向かって人と話すときというのは、相手の顔つきや表情を注意深く受け取っている。それが初対面の相手であればなおさらだ。と、同時に、それが記憶として蓄積されていっているのだろう。

そんな状態で自分の顔を改めて見たことによって、これまでとは違った新鮮な情報が入ってきた。そしてそこにはすでに記憶として蓄積された、向き合っていた相手の顔も重ねられたのかもしれない。

とにかく、自分の顔が全く見知らぬ顔だったというのは、本当に衝撃だった。普段私は一体何を見てきたのだろう。

ほどなくして、鏡に映る顔は馴染みのあるものに戻ったが、これは興味深い現象である。これが例えば日々直接多くの人と顔を合わせ、話をしていたら、鏡に映って見える顔というのが変わってくるのだろうか。

さほど変化しない、自分のものだと思っている顔さえも相対的な情報からつくられているのかもしれない。

バタバタという音が聞こえるほど、雨が強くなってきた。

オランダに住む友人は今頃アテネに滞在しているはずだ。アテネは天気が良いのだろうか。自分があまり出かけていないないこともあり、旅先で更新される日記を通して見る景色を楽しみにしている。2020.7.25 Sat 11:19 Den Haag (数日後、友人に思わぬトラブルが起こるということをこのときの私はまだ知るよしもなかった。2020.8.1 追記)