767. 蘇る思い出

 

思い出が、心に流れ込んできた。

見上げると青い空には鱗のような雲が川のように広がっている。

記憶というのはどこにしまわれているのだろう。

覚えていることさえ知らなかったことがひょんなことから蘇る。もうそれが事実かは分からない。そもそも何が事実かなんて分からない。

それは今も言えることだけど、例えば10年前、15年前の私は、今よりももっと必死に生きていて、目の前のことに精一杯だった。自分がどんな風に人の目に映っていて、どんな記憶として残っているのか。今思い返しても想像することができないほど、目の前のことに精一杯だった。

きっかけは久しぶりの連絡が来たことだ。同じ日に、二通。

欧州に来るのと同時に、そしてそれより前にも何度かSNSを辞めており、そして何度か携帯番号を変えていた私にとって、「久しぶり」の連絡が来るのはとても珍しい。今でこそSNSで面識や共通の知人がいない人からの友達申請やメッセージを受け取ることをするようになったが、少し前はそれもしておらず、一人の昔の知人・友人から芋づる式に同級生につながるということもなかった。(いまでもない。)

私の連絡先を知っている人が連絡をくれるのは、何かとても良いことがあったときか、自分自身にとって大切なことをふわっと思い出したときか、もしくは何か満たされていないことがあるときだ。

短い言葉からも、その人にこの1年くらいどんなことがあって、今どんな世界を見ているかを想像するのは、もはや職業病を超えた、遺伝子レベルの(誰からの遺伝かは知らないが)特徴のようなものだろう。

少しの言葉から、映画のように時空を超えた世界が広がる。

それは、相手の物語であると同時に、私自身の物語でもある。

あの頃、私はどんな世界を見て、何を考えていたのか。

考えずとも、パンドラの箱が開くように、何重にも結ばれた紐がはらはらとほどけていく。

随分と遠くまで来てしまった。

そんな私は、随分と自由に生きているように見えるのだろう。

人は遠くにいる人に、自分が叶えられなかったものを重ねるのだろう。

その手には、あふれんばかりのものを抱えているのに。

自由なのは、手放してきたからだ。

大切なものを、何度も何度も、何度も。

人は私の中に、強さを見るだろうか。

それもそのはずだ。自分以外に依るものがなかったのだから。

どれだけ手放しても、まだなお、与えられ、見守られ、愛されているのだということに気づいたとき、自分というのは途方もなく小さく、無限に大きな存在なのだということが分かった。

全ての悩みは、自分の中で生まれ、全ての救いは、自分の中に現れる。

そして大きな力で生かされている。

そのことを知った今、何のために生きるのか、誰のために生きるのかという問いは意味をなさない。私という存在は全てと繋がっていて、全ては私の中にあるのだから。

思い出が蘇る意味をたどるよりも、今は、思い出が蘇ってきているということをただ感じていたい。

鱗状の雲はすっかり流れて、綿のような雲が空に広がっている。2020.7.22 Wed 19:54 Den Haag