765. 幾重にも重なる意識に揺られながら
意識に気づく前から意識があった。
おぼろげな意識の中でそんなことを思った。
それが夢だったのか、考え事だったのか、その境目は分からない。
とにかく、意識が明確に現れたときにはすでに頭の中に色々な考え事があった。
考え事がそこにあって、それを捉える意識が現れた。ということは、そのときに現れたのは、意識をさらに観察する視点だったのだろうか。
「意識」という言葉が、ミルフィーユのように何層も重なるものだということを想像する。
私たちは今日もそんな、何層もの層を通して世界を見る。
幼い頃に見ていた世界はどんな世界だったんだろう。
懐かしさとは、時間や人の成長は不可逆であり(ゆらぎはあるが)、そこにはもう戻れないということを知っているが故に起こる感覚なのかもしれない。
頭の中にあった考え事は、言葉として、声として聞こえていた。
私は聴覚が優位なのだろう。言葉が景色として再生される。それはきっと夢の中でも起こっているのだと思う。
この日記を書き終えたら、この後の打ち合わせに向かって一気に思考が働き出す。その前にこの、ぼんやりとした感覚の中にもっとひたっていたい。
何層にも重なる意識のことを考えるのもいいけれど、今は何層にも重なる鳥の声に身を委ねたい。
意味を持たない音は心地いい。
そう思ったそばから、意味を付与しているのは自分自身だということに気づく。
意味を付与することを手放せば、どんなに言葉に囲まれても、静けさの中にいることができる。
感覚を塞ぐのではない。
言葉の奥にある、存在を聴く。
存在の中に立ち現れてきたものを言葉にする。
そんなことをもっと実践したならば、世界はまた違ったものに見えてくるだろうか。
幼い頃に見ていたような、光と愛に満ちた世界。
今はそれに、悲しみと憂いが織り合わさって、それでも生きている人間の姿がそこにあって、あの頃よりもずっと、世界が彩り豊かで奥深くて、あたたかいものに見えるだろう。
8月は「夏休み」のような期間を決めて、瞑想的に世界に佇む時間を取ってみようか。そんなことが湧いてきている。2020.7.21 Tue 8:18 Den Haag
766. 音の先に広がる世界
開け放った窓の外から、賑やかな話し声が聞こえてくる。どこかの家の庭で、家族が食事をしているようだ。
オランダの学校は夏休みに入っている。それは同時にバカンスシーズンに入っているということでもある。
私の知る限り、オランダでは人々が粛々とながら、のびのびと暮らしている。必要な制限を受け入れ、可能な中で楽しむ。それが長い間水害に見舞われてきた国の人たちの、人間がコントロールできるものを超えたものへの向き合い方なのかもしれない。
先ほど、ふと思い立ってYouTubeで聞いていた洋楽の曲をイヤホンを通して聞いてみた。思った通り、iPadから直接出力するよりももっと繊細に広がりのある音が聞こえてくる。目をつぶると、動画を眺めていたときよりもずっと鮮やかな世界がそこに広がっていた。
人間は様々な音を聞き取れるのだ。
もし思い込みというフィルターを通さなければ、目で見るよりもずっとずっとピュアに世界を捉えることができる。(思い込みというフィルターを通さなければ目で見ても同じようにピュアに世界を捉えることができるのかだろうか。)
そんなことを考えたのは今日、不思議な体験をしたからだろう。
コーチングセッションのとき、私は目を閉じていることがある。もともと音声のみでセッションをしているので相手の顔は見えていないが、目を閉じると視覚情報は完全に遮断されて、その分、様々なことが聞こえてくる。
これまでは、言葉が景色をつくりそれを見ているのだと感じてきた。しかし今日は、言葉が景色をつくり、その景色をさらに聴いているように感じた。
そこに物理的・空間的な隔たりや限界はなくて、遠く離れた場所にいるはずのクライアントが、目を閉じた先に立ち上がるスペースの中に確かに存在していることを感じた。
いつもなら声から身体の状態まで聞こえてくるのだが、今日はそこに身体の存在はなかった。願いや想い、そしてその人を見守る祖先たち。そんな存在がそこにあった。自分自身が、祖先や子孫、これまで関わってきた全ての人に見守られ、同じように、たくさんの人に見守られている相手とそこに共にあるということを感じた。
その場所を「スペース」と呼んでいいのだろうか。
物理的なものではない、でも空間と呼べるものがそこにあった。
つくづく私は聴覚が優位なのだろう。オランダに暮らし、それがさらに鋭敏になっているように思う。
この感覚をさらに磨いたらどうなるのだろうか。
言葉、声、音。その中には間違いなく、3次元を超えた情報が含まれていることを確信している。情報というと味気ない。そこに、人生全てが込められている。
言葉と声を通して、人は様々なことをやりとりすることができる。
言葉と声の世界で身体の凝りをほぐすこともできるし、
言葉と声の世界で一緒にダンスを踊ることだってできる。
言葉が人の勇気になることもあるし、時に言葉は人を傷つける。命さえも奪う。
それぞれの人が、自分の中にある静けさに気づくことができたなら、もっと心穏やかでいられるだろうか。
それぞれの人が、自分の中に言葉が生まれる瞬間に気づくことができたなら、他の人の言葉が生まれる瞬間にも耳を傾けることができるだろうか。
目撃者。自分の存在を表現する言葉が浮かんでくる。目撃者は、字の通り目撃する人のことだ。Witnessもどうやら「見た人」というニュアンスがあるようだ。見守る、というのも目で見るという前提である。
しかし、歴史的に見て人は、見ると同じくらいかそれ以上に聴いてきたはずだ。今でも祝詞などは、唱えられ、それを聞く。もしかするとやはり音は人間の深淵な部分につながっているのだろうか。
どんなに聴こえていても、十分ということはないだろう。
まだ聴こえていないものがあるかもしれない。そう思えるから聴き続けることができる。
今日はこのあとは目を閉じて、音の世界に身を投げてみることにする。2020.7.21 Tue 20:48 Den Haag