763. 計測する、記録する、評価するという行為について

 

中庭から響いてくる鳥の声に耳を傾ける。音を聴く、静けさを聴く。

日記を書き始めるときはいつも、中庭を眺めるところから始めていると思っていたがどうやら私は聴くことから始めているようだ。

音と景色に境目はない。

感覚を通して入ってくるものは、心の中に風景として広がっていく。

今日はあたたまり始める前の空気が気持ちよくてカーディガンを羽織って散歩に出かけた。運河沿いの自転車道に並走している舗装されてない道を歩く。足元の土を感じ、すれ違う街路樹の一つ一つに触れていく。木の根っこたちはきっとつながっているのだろう。地球にも、遠く離れた場所に生きる木々にも。だから、雨の日も風の日も、周りがどんなに騒がしくても、いつも変わらず静かに佇んでいられるのだ。

数日前に始まった屋根の工事が今日も続くようだ。

8時過ぎには工事の人がやってきて、上の階や窓の外、1階部分を行き来する。家主がいない家にやってきて工事を進めるというのは私にとっては驚きだが、それはとても合理的であり、人間を信じているのだとも思える。人は、他の人が見ていようがいまいが、自分が為すべきことを全うする。近視眼的な欲求に捉われることは、長い目で見て自分のためにならないということも分かっている。休みたいときに休んで、機嫌よく仕事をし、結果として良いものができたならそれでいいのだろう。

週末はずっと、アセスメントについて考えていた。

組織開発においてアセスメントやサーベイが実施されることは珍しくないが、それは本当に必要なのだろうかという疑問が湧いていた。成果測定のためであり、同時に測定することが成果を押し上げることにもつながるというのがおそらく一般的な考え方だが、本当にそうだろうか。

誰のためか、何のためかということがごちゃまぜになってはいないだろか。

組織開発に限らず、ある取り組みが、その取り組みの参加者(実践者)のためのものになっているかというのは注意深く見つめる必要があると最近感じている。

企画者や運営者が、自分の存在価値を証明するためのものになっていないか。企画者や運営者が、自分の欲求を投影させ、他者にそれを実現させようとしていないか。

例えば、自分が慣習から自分を解放することができていない大人は、抑圧された自己を子どもに投影し、「子どもたちがもっと伸び伸びと育つようにしよう」と鼻息を荒くする。

「伸び伸びと」ということ自体間違いではないかもしれないが、それぞれの人にはそれぞれの成長のステージと順番、ペースというものがある。シュタイナー学校は自由だと思われているかもしれないが、実際にはずっと同じ先生が担任をし、家長的な役割を果たしているしそこには秩序もあるという。その中で子どもたちはそのときそのときの年齢や個人にあった表現をし、そして教室という殻を破っていくのだ。

アセスメントやサーベイは、ある意味、見えないものを見えるようにする行為だ。それによって、第三者もそこに何が起こっているかを客観的に捉えることができるようになるかもしれない。しかし、それにどれだけの意味があるだろうか。

コーチングセッションでも話した内容を記録にする「ログ」と呼ばれるものをつけることがあるが、私自身はログはメモの役割はあっても、それ以上の意味はないのではと思っている。大事なのは、話されたことではなく、話しをしているときにそこに何が起こっていたか、クライアントが何を感じていたかなのだ。

もちろん、話されることには意識の状態や段階が反映されているため、現在の自分自身を知るという意味では話を記録することの意味もあるのだが、その場合は話の内容ではなく、話の構造を記録する必要がある。

何のため、誰のため。

それが分からなくなった作業を膨大にこなしてはいないだろうか。

体験することよりも、記録すること、評価することばかりに手をかけていないだろうか。

いつものことながら、これは自分自身への警告である。

目的と手段が入れ替わり、仕事のための仕事をつくってはいないか。

自分の欲求を他者に投影していないか。

今日もそんなことを胸に刻んで、目の前のひとやことに向き合いたい。2020.7.20 Mon 9:01 Den Haag

764. 1日の終わりにぬくもりを思う

 

先ほどまで聞こえていたカモメの鳴き声に変わって、ガーという機械音のような音が聞こえてきた。

先週から屋根の上で工事が始まったが、その一環だろうか。それにしては時間が遅い。上の部屋の住人が何か作業をしているのだろうか。

工事は平日は毎日行われていて、不定期で比較的大きな作業の音が聞こえてくる。幸いにも今のところコーチングセッションの時間と重なることはないが、できるだけ早く終わってほしいという気持ちがあるし、できることなら大きな音が出る工事は避けてほしいとも思うのだが、ここは共同住宅であり、建物の維持のためには補修等が必要なことを考えると致し方なしというところだ。

こんな風に頻繁に手入れをしてきたからこうやって快適な環境が保たれているのだろう。

機械音が止まり、またカモメの声が聞こえてきた。

西陽を受けてオレンジ色に染まった何羽ものカモメが、高度を頻繁に変えながら飛び回っている。

彼らは声を上げることで何かを交わしているのだろうか。

こうして書き進めていると頭と体が随分と疲労していることが分かる。

残念ながら今日1日のことを振り返ったり特定のテーマについて深めたりする元気はないようだ。

今頭に浮かんでいるのは、「このままあまり遠出ができず、日本に帰る機会もないようであれば猫が飼いたいなあ」ということだ。

あたたかくてしんなりとした身体を撫でて眠りにつくことができるなら、それ以上に今、手に入れたいものというのは特段ないかもしれない。

オランダでは猫も犬も飼っている人が多いけれどおそらくオーナーのヤンさんはこの部屋で猫を飼うことを好まないだろう。

残された望みは中庭で遊ぶ近所の猫で仲良くなるという道だろうか。

姿を見る度にミャアミャアと呼びかけているせいか、猫たちはすっかりそっけない。英語やオランダ語を学ぶよりも猫語を学ぶ方が俄然やる気が湧いてくる。

今度街の中心部に行ったら、猫のぬいぐるみでも探してみようか。

そんなことを考える私はよっぽどリアルな触れ合いに飢えているのだろうか。

ひとまずは木に触れ、地球とつながることを続けてみようと思う。2020.7.20 Mon 21:29 Den Haag