762. 対話とともに還る場所


少し前に降り出した雨が、張り出した1階部分の屋根の上に水たまりを作っている。静けさ、寂しさ、儚さ。いろいろなものが舞い降り、土にしみ込んでいく。

我が家からビーチまでのちょうど間くらいのところにある森(森林公園)に行こうと散歩に出たのは12時すぎのことだった。森の中で深呼吸をする気満々だったのだが、道のりの半分も進まないところで「帰ろう」という気になっていた。

からっとした風の中には冷たい空気が混じり、それが雨の予感をもたらしたけれども、それはきっと口実にすぎなかったのだと思う。

結局、散歩は20分ほど。いつもの散歩道をぐるりと回って帰ってきた。それでも今日の私には十分だった。住宅街を歩く、運河を見る、木に触れる。それだけで身体の中の空気は入れ替わり、思考は穏やかなものになる。

ここ数日間考えていたことの結論も出つつある。まだ完全ではないが、プロジェクトの仲間に伝えられる形にも、ある程度することができた。

現在の私が専ら興味があるのは対話だ。

なぜ、誰でもできるように見える「聴く」ということが仕事になるのか。

口は一つ、耳は二つ。

それでも、世界には聴き手が不足しているのだろうか。

不足しているのは聴くということだけではない。伝えるということも不足しているのだ。

人は話したことに対するフィードバックがあって初めて、「話した」「伝わった」という実感を持つことができる。フィードバックというのは、必ずしも何か評価的なコメントを返すという意味ではない。聞いていて感じたことでも、浮かんできたことでも、相槌でもいい。とにかく、何かが伝わっているということを、何かの形で返すのだ。
それだけで人は「話をしているという自分がここにいる」ということを実感することができる。

自己実現や成長・変容を後押しするための対話ももちろん必要とされているが、それ以上に圧倒的に、とにかく「聴く」ということ「伝える」ということがこの世界には不足しているように思う。

その根底にあるのは恐れなのだろうか。

自分ではないものになってしまう恐れ。受け入れられないことの恐れ。

しかし、恐れのさらに奥にあるのは、願いや想いなのだ。

恐れと愛は一見相反するものに見えるけれど、恐れの奥にあるのも結局は愛なのだと思う。それは小さな自分、か弱く儚かった自分に対する愛。

誰もが、小さな自分を必死で守ろうとしている。

確かにまだ幼かった頃、この世界は大きくて、恐ろしい場所だったかもしれない。自分を守る必要があったかもしれない。

でも、そんな中でもどうにかこうにか生きてきた今、私たちはまだか弱い存在なのだろうか。

もうそんなことはないはずだ。

自分自身の内側にある愛と、自分自身を包み込む愛に気づいたとき、世界は優しさと喜びに満ち溢れた場所に変わるだろう。

今見ている景色がどんな景色だとしても、今いる場所がどんな場所だとしても、私たちは最終的に愛という存在そのものに還っていくのだと思う。2020.7.19 Sun 21:03 Den Haag