758. 内と外、ちぐはぐな感覚

 

少しの重たさを肩に感じている。

日本時間の早朝、もしくは朝の時間にあたるセッションはこちらの夜中の時間になるため、いつも夕方に仮眠を取る。そしてセッション後、数時間は寝付くことができないため、翌日はゆっくりと起き出す。対話とは、こんなにも脳を刺激するものなのかということをいつも実感する。

比較的規則正しい生活の中に時折不規則なリズムが生まれることが、欧州に渡って以来、ここ3年ほどの習慣になっている。

特に忙しい経営者の方は日中や夜の時間は頭が思考的な状態にあることが多い。それはそれで必要なことだが、自分自身とのつながりやいつも行なっている思考とは違う無意識の領域とつながるには朝の時間がちょうどいいということは対話をしていても感じることだ。

昨晩読んだ本に書いてあったことが何となく思い出されてきた。それは、人は思考をするとき、五感(感覚)を内的に発揮しているという話だ。外か内か。その双方に感覚を向けることは難しく、状況などに合わせてどちらかに切り替えているという。

その話を聞いて浮かぶのが、「感覚を向ける先がちぐはぐになっているのではないか」ということだ。例えば都会の騒音の中にいると、感覚を外に向けることは大きな負担になる。そこで感覚を内に向ける。これはおそらく、上司に怒られて嫌な思いをしたなど、ネガティブな感情が発露する経験をしたときも同じだろう。感覚を受け取ることから身を守るために、人は自分の内側に感覚を向ける。

しかしその内なる感覚、特に視覚については記憶と同じ神経回路を伝わっていくという。つまりは、過去の感覚が今に呼び起こされるのだ。こうして、一度怒られただけの上司が「毎回怒っている人」に見えてくる。自分を守るために行なったはずの感覚のスイッチ(切り替え)が、現実を見ることよりも人を辛くさせているということは多々あるだろう。

そして逆に、内なる感覚ではなく、外側にばかり意識が向くということもある。ものごとや出来事、他者の話はするが、それについて自分自身がどう感じているかが一向に出てこない。そんなときは、感覚が外に外に向いているときだ。

そんなとき、人は心の中に不快感や痛みを感じていることがある。だからそこには目を向けたくない。状況を描写している方が楽なのだ。

一見楽に思えるが、感じていることがなくなるわけではない。

そんな状態が続くと心や体の不調が現れてくる。

この、感覚を向ける先というのが、どうもちぐはぐになっているのではないかというのが、私が今、日本の社会に感じている課題間の一つだ。ある年代を超えると子孫を残すということはなくなるが、人々が生きる環境をつくるのに対して大きな影響を与えていくようになる。それがこれから子孫を残していく人たちの思考や感覚に影響を与える。そんな中で、環境を作る人たちが自分の感覚に無頓着だったり、感覚を押し殺していたらどうなるだろう。

私は大学で都市計画や交通計画について学んだが(学んだというほどのことはしていないのだが)そういったことに関わる人たちがまず行うべきなのは、自分自身の感覚を自然な状態に戻すことなのではないかとさえ今は思う。今思えば、大学では物事の考え方については学んだが「考えている自分」については学ぶことはなかった。

それは認知能力の発達という観点において、20代前半の人たちに一律で行うことは難しいのかもしれないが、であればなおさら、大人になってから人は自らの認知能力を成長させていくことに取り組まないといけないだろう。

「思考している自分」について自分自身でアセスメントできない状態で(それを完璧に行うというのは難しいだろうけれど)意思決定されたものをどれだけ信頼することができるだろうか。

これは自分自身に強く問いたいことだ。

何かを言葉にしているとき、特に強く訴えかけたくなったとき、それが自分の中の何から生まれているものなのか、意識を向け続けたいし、もしそれができない状態であればときに判断を保留するということを選びたい。2020.7.17 Fri 10:06 Den Haag

759. 宇宙ゴミによって地球に閉じ込められる人間と意識の発達


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月ももう下旬に差し掛かろうとしているのに、夏は一向に姿を現さない。家の中まで随分と気温が上がっていることを感じる日もあるのだが、それが続かないのだ。この2週間ほどの間も、天気の日よりも雨の日の方が多いくらいだ。日本の梅雨のように湿気が強くないため快適ではあるが、「日暮れまでバルコニーで本を読む」という、オランダの夏の風物詩的な過ごし方ができずに残念さを感じている。

先ほど視聴していた動画で印象的だった話について書き留めておきたい。それは宇宙ゴミの話だ。数十年に渡る、低軌道での宇宙開発の結果、現在、大気圏から数百kmのところには現在、使用済みの衛星が2,600基ほど、モニターサイズよりも大きな金属片が1万個、追跡できない小さな金属片を含めると1億以上の宇宙ゴミが漂っているという。

これらは、あるとき衝突を始め、そうするとさらに細かな金属片が飛び散り、指数関数的に宇宙ゴミが増えていくことになる。

そうなれば、人類は宇宙ゴミが大量に飛び交う低軌道を抜けることが難しくなる。宇宙に出て行くことを目指して宇宙開発を行なっていたはずが、それが原因で地球に閉じ込められるということになる。何とも皮肉な話だ。

私はこれを自分の関わる成人の成長支援、その中でも組織における成長支援に置き換えていた。これまで、そして現在、企業内もしくは社会で行われている成長支援というのがこのようなものになっていないだろうか。ある一定の軌道を回る人たちばかりを増やし、それが結果的に壁のようなものとなり、その壁の内側から外側に飛び出ることを阻んではいないだろうか。

こんな風に表現すると、何か特定の層の人たちを非難しているようにも感じるが決してそうではない。決してというには語弊があるかもしれない。支援プログラムを提供する人たち、それを依頼する人たち、そしてそれを受ける人たち。それらは共謀・共依存の関係にある。本来目的としていたそれぞれの人が持つ可能性を発揮することを後押しするような取り組みではなく、それぞれの立場の人たちが短い時間軸の中で存在意義を証明するための取り組みになっていはしないだろうか。

そう考えると、成長支援や能力開発の手前の、存在そのものが認められた場および関係性づくりというのが欠落しているのではないかという気がしてくる。おそらくそうだろう。存在そのものではなく、結果や成果、成長。こういったものを評価される社会や組織であるがゆえに、上に上にという心理的および外的な力学が働くのだ。そのスタート地点がすでに、「短期的な存在意義の証明のための活動によって、長期的な成長に頭打ちが生まれる」という構造的な欠陥を生み出している。

成長支援そのものを否定しているわけではない。それぞれの人がそれぞれの可能性を持っていて、それを発揮することが生きる喜びを感じることだと信じている。しかしその土台で、命そのものに対する祝福を忘れてはならないのではと思うのだ。

そもそも、地球を出る必要があるか、私にとっては疑問である。地球の資源が足りないのであれば、人間が生活を改める必要があるだろう。そういう意味では地球を取り囲む宇宙ゴミは、「今ある世界で生きなさい」ということを教えているとも言える。

良かれと思ってやってきていることが、結果として歪な構造を生み出しているのではないかということは、どんなテーマにおいても頭に置いておきたい。2020.7.17 Fri 20:02 Den Haag

760. 夢遊病社会

 

宇宙ゴミの話とともに今日出会って印象的だったのが、夢遊病の話だ。

現在、コミュニケーションの生物学的歴史を深めるために生命誌研究館が公開している進化研究についての文章を読み進めているのだが、その中にこんな記述があった。

「夢遊病の例は、意識がなくとも私たちは、リアルタイムに入ってくる感覚やこれまでの経験に基づいて行動できることを教えている。しかし意識がないと、新しいことを計画して行動することはない。このように意識の存在はこれまで経験したことのない新しい認識を可能にし、将来に向けた計画的行動には必須の条件になる。」

これは、脳神経系の話から意識と自己について話が移っていったところで紹介されていたものだ。

この文章を読んで、「現代人の多くは夢遊病状態で生きているのではないか」と思った。

今日、目の前に起こったことに新しい認識を向けていただろうか。
自分が言葉にしていることに注意を向け、そこからさらなる認識の扉を開いていただろうか。

何か一つでも、新しい行動を起こしただろうか。

現代社会に生きる上で、意識を目覚めさせておくのには大きなエネルギーが必要だ。
おそらく、夢遊病状態で毎日を過ごした方がずっと楽だろう。

自分はそれでもいいかもしれない。

しかし、これから何十年もこの社会を生きる人たちはどうなるだろうか。
これから生まれてくる人たちはどうなるだろうか。

今日向き合う人が、老い先短いかもしれない。諦めたくなるかもしれない。
それでも、その人たちは、これから生きて行く間に誰かに出会い、何かを交わしていくのだ。

社会変革の意識や、社会課題を解決しようという意識はこれまであまりなく、今もさほど強くはないのだが、今、「自分の人生」という単位で時間を考えることや「目の前の人との関係性」に視点を止めることと、せめてひと世代先の人たち、そしてさらにその先の世代の人たちの生きる世界に目を向けることは、思考や行動の基準が全く違ってくるのだということを感じている。

自分自身の今や未来に希望を感じることができなかったら、これからの世界も何もあったものではないだろう。

それでも、私たちは、「ひと世代前の人たちが作った社会を生きる」という構造の中に生きている。だから、今、どんなに頑張ろうともすでに変えられないことも多くある。だからこそ、次の世代にどんな環境を残すかというのが重要になってくるのだ。

「おもしろきこともなき世をおもしろく すみなすものは心なりけり」

高杉晋作がそう詠んだ頃から(その前から)ずっと、私たちは世界や社会を引き継いできた。自分のために生きていい。でもそれだけではない。まだ見ぬ私たちのために社会をつくってくれてきた先人たちを思うと、せめて少しでも、後世のために良い環境をつくっていきたいという想いが湧いてくる。2020.7.17 Fri 20:27 Den Haag